1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。この事件の2日後には、同年2月に目黒公証役場の事務長を拉致した疑いで、オウム真理教の教団施設への一斉家宅捜索が行われ、教団の実態が明らかになる。教団の犯した17にも及ぶ事件で起訴された教祖の麻原彰晃だったが、裁判の長期化を理由に検察が4事件の控訴を取り下げ、13事件についてようやく死刑判決が下されるまでには、それでも約8年の歳月を要した。その判決公判廷の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(前2回の2回目。前編を読む)

◆◆◆

死刑への執着

 この瞬間がすべてだった。

ADVERTISEMENT

 この怠惰な裁判の方向性を位置付けてしまった。少なくともぼくはそう思っている。

 その次の公判から、あからさまに不機嫌な顔になった教祖は、証人尋問中に不規則発言を連発するようになった。意思表示とも、証言の妨害とも受け取れる暴言、否定、独り言の数々を繰り返す。

 怒気を孕んだ表情に、ぼさぼさになった髪と髭は、いつしか短く刈り込まれ、服装にもこだわりをなくして、スウェットやジャージで法廷に現われるようになった。

 やがて坂本弁護士一家殺害事件の証人として岡崎一明がやってくると、その発言のテンションはピークに達し、岡崎の発言に、

「そんなことは言ってません!」

 と、明確に否定するまでになる。

 これに負けじと、岡崎も証言の語尾や発声を強めるものだから、まるで二人の言い争いの様相に。

 その翌日には、やはり同事件で証人としてやってきた早川紀代秀に、ぶつぶつぼやき節の不規則発言をして動揺を与え、証言を妨げようとする。

 さすがに、両日とも、堪り兼ねた裁判長が被告人に退廷命令を下す。

©iStock.com

 この日に限らず、退廷命令が出ると、すかさず十数人いた刑務官が一斉に被告人に取り付く。瞬く間に被告人を取り囲んで押さえてしまうと、力任せにそのまま法廷の扉に向かって一気になだれ出る。容疑者の身柄確保の瞬間のような、騒然ぶりだった。

 その有様に、法廷の中央に独り残された当年47歳の早川は、証言台に突っ伏して人目もはばからず声を挙げて泣き出したほどだった。

 その不規則発言の一方で、被告人は弁護人との接見や打合せも無視するようになっていた。意思疎通を拒むようになったのだった。

 そして、必ず不規則発言の合間に、意見陳述をさせてくれ、と叫ぶようになっていた。留保とした罪状認否をやらせろ、と喚くのだ。

 その度に、不規則発言を注意し、然るべきときに認否をさせてあげますから、と阿部裁判長はたしなめるのだった。

「駄々っ子みたいに騒ぎなさんな」

「みんな見てますよ。みんな笑ってますよ」

 まるで幼稚園の園長先生のような言葉で、教祖を諭しながら。