『武漢日記 封鎖下60日の魂の記録』(方方 著/飯塚容・渡辺新一 訳)河出書房新社

 最初、これが「日記」だというつもりもなかった、と著者は書いている。充ち満ちているのは、切迫したことば、書かれなくてはならなかったことばたちだ。

 閉じ込められた都市のなかでひとびとは、ゆっくりと確実に、空間と時間の感覚を奪われていく。牢獄の壁に棒印をつける囚人のように、山でさまよいながら地図に線を引く旅人のように、著者は日々ネット上にことばを刻む。それを友人が、武漢市民が、外国の知人が、見知らぬ異邦人が、むさぼるように読みこむ。

「体を大切に、出かけるな、出かけるな、出かけるな」(1/29)私たちはもう九日も閉じこもっている。山場は過ぎた(1/31)死だけでなく、多くの絶望があった(2/9)私たちは運がよかったのではなく、たまたま生き残っただけなのだ(2/25)

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 負の感情だけではない。著者は感謝し、祈りを捧げる。デリバリー業者に、警官に、清掃員に、とりわけ医療従事者に。近隣から「愛心菜」を受けとり、パンや調味料を配り合う。都市の「暮らし」そのものが、森の生態系が生まれかわるように再構築されてゆく。

「災難とは何か?」と著者は問う。それは「袋に入れた数体の遺体」「半月のうちに、一家全員が死ぬこと」「入院したときが家族との永遠の別れであり、二度と会う日が来ないということ」。閉鎖されたその街で、ひとびとの死は尊厳をはぎとられ、放置され、数字として処理される。災難はなにによって起きたか。なぜとめどがないのか。ブログを遮断され、文章を削除されても、著者は訴え、声をあげつづける。「私には死者たちの無念を晴らす責任と義務がある」から。

 人間はウィルスに追いつめられ、俯いているばかりではなかった。気づかい、共有し、差しだすこともはじめた。「感染症の流行以来、『愛情』について語るのも、『善意』について語るのも空理空論ではなくなった」と、著者は書く。同じ災厄に包まれ、切実にあらがうことで、全地球的な連帯心がうまれつつある。アメリカと中国の政治家が罵り合う下で、両国の医師たちは治療法の情報をやりとりしている。

 武漢から遠く離れたところに住むわれわれにも、その切実さ、息苦しさ、そして希望が共感できる。はからずも、世界がひとつになっていく過程が、この日記には克明に描きだされている。僕たちも「閉じ込められていた」のだ。そして、その後、ほんとうに解放されているか? じつはまだ「閉じ込められたまま」でいるのではないか。

「国家の存続に責任はないのか?」と著者は書く。それは中国に対してのみ刺さる問いかけではない。新しい暮らし、とはマスクと手洗い、距離だけのことではないはずだ。災厄はけしてまだ収束してはいない。僕たちそれぞれに、切実な「新しい日記」が必要なのかもしれない。

ファンファン/1955年、中国・南京生まれ。作家。2歳時より武漢で暮らす。運搬工に従事したのち、文革後に武漢大学中国文学科に入学。2007年から湖北省作家協会主席を務めた。10年、「琴断口」で魯迅文学賞受賞。主な作品に「胸に突き刺さる矢」など。


いしいしんじ/1966年、大阪府生まれ。作家。2016年『悪声』で河合隼雄物語賞を受賞。著書に『ある一日』など。

武漢日記:封鎖下60日の魂の記録

方方 ,飯塚容 ,渡辺新一

河出書房新社

2020年9月8日 発売