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 李健熙の日本暮らしは、親元を離れて小学5年生の1953年(昭和28年)から3年間と、早稲田大学時代の1961年から4年間だが、いずれも一人ですごすことが多かったという。その結果、読書やテレビ、映画を観たり「新しく出た電子製品を買ってじっくり観察するのが趣味だった」(『李健熙エッセイ ちょっと考え世の中を見よう』1997年、東亜日報社刊から)という。彼の揮毫として「無限探求」が残っているが、子供のころから孤独でどこかオタク的な雰囲気がうかがわれる。

写真はイメージ ©iStock.com

 筆者(黒田)とは同世代だが、朝鮮戦争(1950-53年)の混乱と荒廃の韓国から戦後復興真っ只中の日本にやってきた小学生時代と、高度経済成長が始まった上昇気流の日本で大学生だった彼にとって、おそらく人生の行方やモノの見方を左右するほど日本は限りなく刺激的だったに違いない。

 彼の自著エッセイには日本との過去の歴史について「(民族指導者たちの努力や義兵活動にもかかわらず)結局、日本の植民地になったのは、われわれに国を守るだけの国力すなわち政治力、軍事力、経済力が不足していたためだ」という自戒、自省はあっても、ことさら日本への恨みつらみは見当たらない。

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執務のほとんどが自宅の「隠遁の哲学者」

 読書家で知られ愛読書はA・トフラーの『パワーシフト』で、仏教思想に闇の時代の混迷を生き抜く知恵を探った五木寛之の『他力』もその一つという。江戸時代を中心に日本史に詳しく、自宅書斎の壁は日本の書籍やビデオテープでびっしりだったとか(洪夏祥著『サムスン経営を築いた男 李健熙伝』2003年、日本経済新聞出版から翻訳出版)。

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 筆者は1980年代に他の日本人記者とともにゴルフに招かれ一度だけ会ったことがある。まだ先代が存命中で40代だったと思うが、プレー中はもちろんプレー後の食事の際もほとんど語らず、何を聞いてもきわめて言葉数が少なく「若いのにずいぶん寡黙だな」という印象だけが記憶に残っている。

 3男ながら父の後を継いで会長に就任した後も寡黙ぶりは続き、記者会見やインタビューもやらず、執務のほとんどが自宅ということもあって「隠遁の哲学者」と皮肉られもした。人の話によく耳を傾ける聞き上手だったが、しかし会議などで話し始めると何時間にも及び、経営陣への問いかけは執拗だった。