「知日」へのこだわりでいえば、李健熙時代の「サムスン」は毎年、数百人の研修団を日本に送り込み、社内では常時、日本語学習が進められ、人材確保では技術者、研究者など日本人が大々的にスカウトされた。半導体関係を中心に一時は数百人もの日本人が雇用され、苦戦していた流通部門の改革のためにはグループ内の老舗「新世界百貨店」に日本人店長まで起用している。
彼の経営語録のハイライトになった「質のためなら量を犠牲にしてもいい」という、品質への徹底したこだわりは典型的な「日本に学べ」の結果だろう。成功に甘んぜず、自慢・慢心をいましめ、いつも先を見ながら「まだまだ」といい続け、そして終始、危機意識への備えを怠らなかったのも日本に学んだ結果かもしれない。半導体で日本を制したのは、決断力と先見の明に欠け、冒険をしなくなった日本企業の安心・慢心(?)が教訓になったということだろう。
無口なオタク体質はどこか日本的だった
同じく財閥オーナー2世で、李健熙とは同郷でほぼ同世代の元「双竜」グループ会長、金錫元(75)から面白い話を聞いたことがある。彼も親の計らいで朝鮮戦争前後、避難的に日本留学の経験があり、日本通で知られた。車好きで自動車生産に乗り出しながら成功しなかった点も、李健熙に似ている。
金錫元は20代で親の後を継ぎ、快活な社交家で後に国会議員にもなった。李健熙に比べると風采もよかった。そこで若いころ、李健熙の父・李秉喆から「うちの息子は無口で社交的でないのでキミがよく教えてやってくれ」と頼まれたことがあるというのだ。
金錫元は一時は大統領への夢もあったが、その後、政治資金疑惑などで政治の世界から離れてしまった。財閥「双竜」は自動車産業進出の無理などから解体となり、本人も引退し忘れられて久しい。
一方の無口で風采の上がらなかった李健熙は、その後、世界的な経営者となり、国民的英雄として歴史に名を残すことになった。皮肉というしかない。あえていえば、李健熙は政治などには直接手を出さず、無口で機械いじり大好きの少年風に、ひたすら“経営オタク”として脇目も振らなかったから成功したのである。大財閥のオーナーで決して庶民的でも清貧でもなかったが、その“オタク体質”はどこか日本的だったといえるかもしれない。
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産経新聞ソウル駐在客員論説委員・黒田勝弘さんの特別寄稿「韓国サムスン元会長“日本的オタク体質”の成功者」は、「文藝春秋digital」に掲載されています。
「日本に学んで日本を追い抜いた」享年78 李健熙・サムスン元会長“日本的オタク体質”の成功者