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犬猿の仲だった鶴岡元老に一矢報いる

「鶴岡元老」とは、南海黄金時代を築き上げ、プロ野球の監督史上、最多となる通算1773勝を挙げた鶴岡一人氏(故人)のことだ。京都の峰山高校から野村をテスト生として採用し、高い打撃力を買って一軍で起用した恩人であるはずだったが、この頃は犬猿の仲だった。さらに野村は、「(公私混同は)身に覚えがない。彼女は野球を知らない。コーチ会議に出たり、采配に口出ししたことはない」と否定したのだ。

野村克也と鶴岡一人

 怒りであふれる胸の内を洗いざらい吐露した野村だったが、これが数多くの栄光を築いてきた南海ホークスの一員としての最後の姿となった。

 これ以降、野村と南海ホークスの関係は、球界およびスポーツマスコミの間では、「触れてはいけないタブー」となったのである。

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野村夫妻 Ⓒ文藝春秋

 それから43年後。野村の遺品はついに昔の懐かしい故郷に戻ることになった。選手として南海で一時代を築いた野村であったが、これまでギャラリーには野村の野球道具が一切展示されていなかったどころか、南海の歴史を明記した年表にも「野村克也」の名前は一切なかった。これほどの大選手が、南海の野球史から抹消されていたのだ。

メモリアルパークの展示パネルには、野村の文字が一切ない
 


 南海電鉄執行役員の和田氏は、「大阪球場を取り壊して2003年にこのパークスを開業したとき、その後の2007年に全館グランドオープンしたときの2回にわたって野村さんの事務所に『野村さんの功績を称えたいので、野球道具などを置かせてもらえないでしょうか』と問い合わせしたのですが、残念ながら承諾をいただけませんでした。古くから付き合いのある取引先の方々から、『野村さんはあんなに南海に貢献してくれた人なのに、どうして……』と残念がる人も多かった。それだけに今回、非常にうれしく思っています」と語った。


 また、野村と沙知代の息子である、野村克則・楽天イーグルス1軍作戦コーチも今回の件を受けて、「南海ホークス、大阪球場があったからこそ、父は名捕手、名将となりました。『南海ホークスメモリアルギャラリー』がリニューアルされるにあたり、父の功績が大阪球場の跡地に刻まれるということを大変うれしく思います」とコメントを寄せた。

 野村の「ヘソから下」から端を発した"事件”は、40年以上の空白期間を経て、ついに終止符が打たれたのである。

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