「モルフェウスとイリス」1811年、油彩、251×178cm、エルミタージュ美術館 ©ユニフォトプレス

 ここは眠りの神ヒュプノスが支配する「眠りの王国」。ヒュプノスの母は夜の女神ニュクス、兄弟は「死」、息子は夢の神モルフェウス(夜と眠りと夢と死が、時に混然としているのは誰もが知るとおり)。

 王国は山の中腹の洞窟にあり、レテ(=忘却)川が流れ、入り口には眠りを誘う罌粟が咲き乱れる。

 ロード・ダンセイニが「大きな罌粟(けし)」という詩でこう歌う、「眠たげな罌粟の間を縫う風は、『思い出すなよ、思い出すなよ』とささやいていた」。

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 愛も憎しみも思い出すなよ。喜びも怒りも執着も思い出すなよ。全てを忘れ、思い出せぬようになってようやく人は慰撫されるのかもしれない。安らかに死の世界へ旅立つことができるのかもしれない。

 ゲラン描く本作は、昏々と眠るモルフェウスのもとへ虹の女神イリスが舞い降りたシーン。陶器のごとく滑らかな肌のイリスは、透きとおった蝶の羽をつけ、青いヴェールを翻し、クピド(=キューピッド)を従え、雲塊に腰かける。彼女はモルフェウスを起こし、ある人の夢の中へ入り込むようにとの、女神ヘラの指令を伝えに来たのだ。

 モルフェウスの、若々しくのびやかな肢体が美しい。それはイリスの硬質な身体よりなまめかしくさえある。彼が横たわるベッドの、黒檀の台座(画面下方)には、眠りをモチーフにした三つの物語が描かれている。右から順に、ヘラの腕に抱かれて眠るゼウス、夢に形を与えるため飛翔してゆくモルフェウス、眠らされる百眼の怪物アルゴス。

 眠りの国における、夢の神の眠りは深い。虹の女神は急がねばならない。なぜならイリスが天界と地を行き来できるのは、虹がかかっている間の、ごく短時間だけなのだ。彼女は見えざる糸を操るかのように右手を上げる。するとモルフェウスの両腕は、伸びをするように動きだす。

 彼が目覚めるのはまもなくであろう。そしてまた新たな物語が始まる。

■罌粟(けし)の花冠

バラ色の頬と血のような唇をもち、少女と見紛うこの少年は、夢の神モルフェウス。罌粟の花冠をかぶって眠っている(夢の神はどんな夢をみるのだろう?)。鎮痛・止瀉・催眠などに効くモルヒネはモルフェウスにちなんで命名され、罌粟から採取される。花びらが散ったあと、蒴果の表面に傷をつけて滲み出た乳汁を加熱乾燥させたのがアヘン、そこからさらに単離・精製すると医療用のモルヒネができる。

ピエール=ナルシス・ゲラン Pierre Narcisse Guerin
1774〜1833
フランス新古典主義の画家だが、弟子には全く画風の違うロマン派のジェリコーとドラクロワがいた。

中野京子 Kyoko Nakano
作家・独文学者。特別監修の「怖い絵」展は兵庫県立美術館(神戸)で開催中。秋には上野の森美術館(東京)で。
http://www.kowaie.com/

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