十八世紀半ばのロンドンは、産業革命や第二次囲い込み政策の影響もあり、職を求める移民や土地を失った農民などが大量に流れ込んで、イーストエンドに貧民街を形成した。
同時代の画家ホガースが自分の目で見て、また新聞で報じられた事件も盛り込みつつ、イギリス人らしい強烈なブラック・ユーモアを交えて版画化したのがこの作品。
画面のいたるところでドラマが起こり、「この世の地獄」を絵解きしている。まずは中央にひときわ大きく描かれたヒロインだが、飲んだくれて鼻は赤く、足には梅毒の腫れもの。おそらく街娼であろう。嗅ぎ煙草をつまむのに忙しく、乳を飲ませていた赤子が転がり落ちても気づかない。
右下には、痩せさらばえた元兵士が酒瓶を握りしめて死にかけている。籠からは「反ジン・キャンペーン」のチラシが覗く。ジンは命を削るから飲むなという運動が真っ盛りだったが、アルコール度数の高い安酒を止めるのは難しい。何しろミルクより安かった。画面右中央で、乱暴な母親が赤子を泣きやませようと、無理やりジンを飲ませている。
ジン・ショップはこの狭い一角にさえ二軒もある(標章はジョッキ)。荒廃したイーストエンドで商売繁盛するのは、他に棺屋(画面中央奥に大きな棺型の標章)と質屋(三個の球体)だけだ。それ以外の建物は住人の心身と同様、崩落しかけている(手抜き工事でも有名な地区だった)。
質屋の前にはジンを買う金ほしさに、大工はノコギリを、主婦はヤカンを持って駆けつけている。ヘアスタイルを気にする者は誰もいなくなり、理髪店はたちゆかなくなって店主が屋根裏部屋で首を吊っている。骨を犬と奪い合う男がいて、そばにさりげなくカタツムリが描かれている。怠け者を示すシンボルだ。これが当時の人々の貧困への視線だった。
本作は「ビール街」と対になっており、そちらでは人は皆ハッピー、質屋だけが倒産だ。
■嗅ぎ煙草入れ
日本で煙草と言えば、葉に火を点けて煙を吸うイメージだ。しかしヨーロッパでは十九世紀初頭まで嗅ぎ煙草(葉の粉末を鼻孔粘膜に付けて摂取)が主流だった。まず上流階級が愛好し、宝石をちりばめた凝った意匠の嗅ぎ煙草入れが今に残っている(D.カーのミステリ『皇帝の嗅ぎ煙草入れ』は、ナポレオンが愛用した豪華骨董品)。やがて煙草の価格が急落して貧民層にも広まると、この絵のような粗末な嗅ぎ煙草入れまで広まった。
ウィリアム・ホガース William Hogarth
1697~1764
まるで「ウォーリーを探せ」のような発見の喜びに満ちた本作は、『怖い絵展』に出展中。
中野京子 Kyoko Nakano
作家・独文学者。特別監修の「怖い絵展」は10月から上野の森美術館で開催。
http://www.kowaie.com/