日本航空の別の顔
約束どおり彼女には試験内容を伝え、傾向を伝授した。それが功を奏したのか彼女は見事合格。天明さん自身もあれよあれよという間に選考をくぐり抜け、日本航空に入社を決めた。その後、研修と訓練を経て、国際線の客室乗務員となることが決まったが、そこで就職活動で感じた牧歌的な雰囲気とは全く異なる、日本航空の別の顔を目の当たりにすることになる。
当時の日本航空は労働組合運動がかなり盛んだった。社内には8つの労働組合があって、客室乗務員は経営と対立することを厭わない日本航空客室乗務員組合(客乗組合)に加入する人と、労使協調路線を歩むいわゆる「第2組合」、全日本航空労働組合(現在のJAL労働組合)に所属する人に分かれていた。入社間もない天明さんはほぼ強制的に、労使協調路線を歩むJAL労働組合に入れられた。
当時の国際線は17~18人の客室乗務員が1つのチームを組んだが、天明さんが配属されたチームではご本人以外、すべて経営との対立を厭わない客乗組合の組合員。JAL労組が「アオ」と呼ばれたのに対して、「アカ」と呼ばれた人たちで占められていた。アカに囲まれたアオの天明さんは勤務中に誰も口を聞いてくれない状態が続いた。
「プロ意識の強い人たちでしたから、お客様のもてなし方は素晴らしいと思いました。だけれども『最高のサービスを提供するのだから待遇を良くするのは当り前だ』という要求が酷かった」と天明さんは振り返る。
喜んでもらうことは、尊いもの
フライトで向かった米国のホテルであった、ある日の出来事はこうだった。クルーの1人が「ケーキでも食べないか」と珍しく声をかけてきた。部屋へ行くと、残りのクルーが勢ぞろいしていて天明さんを取り囲み、「客室乗務員組合に入り直せ」とオルグしてきた。断ると、帰りのフライトで一層の嫌がらせを受けたという。
筆者は山崎豊子が書いた「沈まぬ太陽」は読んだし、渡辺謙主演の映画も見た。日本航空を取材したこともある。そこで描かれている話を思い出しながら、リアルな話を聞いたが、天明さんの経験談はかなり生々しく、暗い。
孤立感が強まる中で、どうやって働くモチベーションを保つか。天明さんを支えてくれたのは搭乗客だったという。雑誌が欲しい。お茶が飲みたい。要望に応えて「お持ちしました」と言うと、「ありがとう」と言われる。それが海外を往復する中で唯一の会話だったりした。クルーのことを考えるとげんなりするが、搭乗客と向き合っていれば気分は晴れる。喜んでもらうことが、ことさら尊いものと思えるようになり、「お客様第一主義」が人生の基本姿勢になった。