人生百年時代、セカンドライフの身の振り方に悩む人は多いだろう。会社にいると、つい目先の生活に追われ、10年後、20年後を考えることは難しい。新聞社で企業取材を長年続けていた、秋場大輔氏もその一人だった。しかし秋場氏は義兄の認知症発症、家族の健康問題、会社の異動への不満などが一時期に重なって、新聞社から独立したことをきっかけに、会社を卒業した人の人生や、心境について取材する機会を得た。

 秋場氏の著書『ライフシフト』より、妻の死と猛烈な孤独を乗り越え、元日航パーサーから喫茶店経営に人生の舵を切ったエピソードを抜粋して紹介する。

©石川啓次/文藝春秋

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ファーストクラスのおもてなし

 スターバックスやドトールなどの大手コーヒーチェーン店がどの街にも店を構え、個人経営の喫茶店がますます肩身の狭い思いをするようになっている時代に、それでも開業しようというのなら、まずは立地条件の良い場所を選ぶべきだろう。

 しかし2018年8月にオープンした「茶房はちはち」は、言葉を選ばずに言えば不便な場所にある。最寄りは飯田橋駅、江戸川橋駅、神楽坂駅と3駅もあるのだが、どの駅からも徒歩で10分ほどかかってしまう。しかも店の前に歩道はなく、片側一車線の細い道路は頻繁に車の往来がある。散歩コースとは言い難いところにあるお店なので、フラッと入ってみたというお客さんは限られていることだろう。

 ところがこのお店に常連客が増えている。従業員は元キャビンアテンダントと六本木の東京ミッドタウンで案内係をしていた人たちばかり。いわば接客のプロが「ファーストクラスのおもてなし」をするという評判が広がっているからだ。

©石川啓二/文藝春秋

 お店を覗いた日には、女性ばかり8人のグループが来店していた。どうやら常連客のようで、それぞれが3種類あるランチメニューの中から好きなものを選んでいる。

 しばらくして食事が運ばれてきた。よく見ていると、同じAランチでも盛り付けが違う。ある人は付け合わせの野菜が少ない。別の人は逆にメインの肉が少なめ。普段、お店の人は常連客の嗜好をさりげなく観察していて、野菜を残しがちの人の皿はその量を減らしたりしているのだ。

「ファーストクラスの雰囲気」は食後のコーヒーの出し方にも現れる。8人のお客さんの食べるペースはまちまちだが、それぞれが食べ終わってひと息ついた頃を見計らって、お店の人が下膳(さげぜん)に現れ、コーヒーが運ばれてくる。

頼んでいないはずのオレンジジュース

 カウンターに立ってお客さん一人ひとりに目を配り、配膳や下膳のタイミングを指示している“司令塔”はオーナーの天明幸雄さん。長年、日本航空の機内で接客をしてきた人で、従業員はいずれも彼を慕う人たちばかりだ。

©石川啓次/文藝春秋

 今度は小さな子供を連れた若いお母さんが入ってきて、ランチを注文した。運ばれてきた一人前のハンバーグを時折、細かくして子供の口に運びながら、自分も昼食をとっている。そこに頼んでいないはずのオレンジジュースが小さなお子さんのところへ運ばれてきた。

「サービスです」と従業員は微笑んでいる。その直前、カウンターで、さりげなく親子を観察していた天明さんが従業員に小さな声で「ジュースを出してあげて」と指示をしたからだ。「お客様は何を望んでいるのか。言われなくても、それを素早く察知してお応えする。これは習い性ですね」