妻がアルツハイマー型認知症を発症
天明さんは日本航空のパーサー、チーフパーサーを経て、客室乗務員を束ねるマネージャーに就いた。その後、訓練部で客室乗務員の卵を1人前に育てる役割を担った。ミッドタウンでの仕事は、コンシェルジュを一人前に育てること。シチュエーションは違うが、過去の経験が十分に活かせる職場だった。
新天地で働き始め、仲間もできて、日本航空退職で負った心の傷が癒え始めたころ、天明さんを再び不幸が襲った。学生時代からの付き合いで、大恋愛の末に結婚をした妻がアルツハイマー型認知症を発症した。
「最初は『家の鍵が見当たらない』と言って探し回るくらいだったんですけれど、次第に症状が重くなりました」と天明さんは振り返る。
そこで「鍵はテレビ台の上に置くことにしよう」というようなルールを決めた。妻もそれにいったんは納得するが、しばらくすると忘れてしまう。そこで本人に代わって探し物をする。一度や二度なら笑い話で済むが、頻繁に繰り返されると、介護をしている家族は精神的にも肉体的にも追い込まれていく。
ほぼ不眠不休で介護
認知症患者を抱える家族に覆い被さる負担はそればかりではない。症状の一つに怒りっぽくなるというものがある。なだめるとしばらくは落ち着くが、再び怒り出したりする。「『ディズニーランドへ連れて行って』とせがまれたことがありました。遠出するのは大変だと思って先延ばししていると、本人は『なんで連れて行ってくれないのか』と怒る。仕方なく連れ出したけれど、かなり苦労しました」
当時、一人暮らしをしていた麻衣子さんが、お母様の介護を手伝うこともあったが、基本的には父親に任せたという。「私に負担をかけまいと、父は余程のことがない限り連絡をしてこなかったし、2人の生活がどんな感じなのか、詳細を語ろうとしませんでした。それでも苦労していることはなんとなくわかる。そこで少しでも気晴らしになればいいと思って、友達を実家に連れて行ったりしていました」。天明さんは周囲から「テンパパ」と呼ばれるが、それは実家へ遊びに来た麻衣子さんの友人が、「天明さんのパパ」を略して呼び始めたことがきっかけだ。
仕事を終え、自宅に帰るとほぼ不眠不休で介護。朝を迎えて再び出勤するという生活が続き、次第に疲れが抜けなくなっていった。そこで妻を特別養護老人ホームやグループホームなどの施設に入れることも考えたが、若年性認知症患者を受け入れる施設は数が限られる。そもそも長年連れ添った最愛の妻を施設に入れることが躊躇(ためら)われたため、結局、自宅介護を選んだ。