復讐や刑罰はしてもいい
判決が近付くに従って、彼は「造田博教」について、こうも触れている。
【他の人に危害を加えるのがだめな方で、加えないのがいい方と前に書いたのは、ちゃんとした人またはいい人に理由もなく危害を加えようとするのがだめで、ちゃんとした人またはいい人に理由もなく危害を加えようとしないのがいい方という事です】
【キリスト教の敵を愛しなさいとか復讐してはならないは、いらないと思っています】
【私は変な人(これは変な人の事です。)は刑法や法律とかでミキサー(食べ物をどろどろにする物です。)に永遠に入れっぱなしにするのがいいと思っています。ミキサーだけでなくもっとひどい事があれば、他の事もやるのがいいと思っています。これは時間がかかるかもしれません。】
ならば、自分の犯したことについて、遺族が極刑を望むこと、自身の存在を、どう正当化するのか、それを手紙で尋ねても、彼は答えようとしなかった。
最後の手紙
裁判では、犯行時の刑事責任能力を争う弁護側の主張によって、裁判所の嘱託による精神鑑定も実施された。
そもそも、無言電話をきっかけにアパートを飛び出したところで、それが犯行の動機になったとは考え難い。無言電話の相手が誰なのか、本人にすらわかっていない。
弁護側は執拗に中学時代の女子同級生を追い掛けるような常軌を逸した行動から「誇大妄想」による心神喪失もしくは心神耗弱を主張するのだった。
しかし、審理を中断して実施された鑑定の結果は、刑事責任能力を問える、とするものだった。結果的に裁判所は、この鑑定報告を採用している。
「外務省宛の手紙や、渡米のように通常人からみて理解に苦しむ行動や本件犯行の動機の形成過程に飛躍があることなどからすると、被告人が定型的な精神分裂病に羅患しているとは認められないものの、精神分裂病の辺縁群である疾患に羅患していた可能性は否定できない」(判決文より)