1999年9月8日正午前、人通りの絶えることのない東京・池袋で起きた通り魔殺人事件。包丁と金槌で次々と通行人を襲い、死者2名、重軽傷者6名の被害者を出した。犯人は池袋駅前で取り押さえられ、その場で警察に逮捕された。それから3ヶ月半が経った12月、東京地方裁判所に池袋の通り魔が姿を現した。その公判廷の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(全2回中の2回目。前編を読む)

 

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池袋の通り魔

 自らを超能力者とも、神とも語り、武装化した組織の決起によって、日本を支配しようとした男でさえ、死刑に怯え、恐ろしくてならなかった。

 ならば、そこまで取り乱さずとも、死刑の宣告を黙って受け入れる瞬間の被告人の心境とは、どんなものなのだろうか。

 ちょっと想像してみる。

 自分が裁きの場に立たされて、それまで顔も合わせたこともなかった裁判官から、死刑を言い渡される。まったくの他人から死を宣告される。その瞬間の気持ち。

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 その時から、どうすることもできない力によって支配され、塀の内側に生涯を封印され、そして確実に命の奪われる瞬間を待つ。

 やはり怖いだろうか。

 罪を犯したとしても、生きていたいと思うだろうか。

 それとも衝撃的な絶望感に生きる気力すら奪われるのだろうか。

 現実の裁判で、実際に死刑が差し迫った被告人が、その時の心境を、正直に打ち明けてくれたことがある。法廷の裏側で。ぼくにだけ。

 そんな貴重な体験をしたことがあった。

 その時の彼を支配していた感情は、恐怖でも、悲愴感でもなく、むしろ怒りだった。