1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。この事件の2日後には、同年2月に目黒公証役場の事務長を拉致した疑いで、オウム真理教の教団施設への一斉家宅捜索が行われ、教団の実態が明らかになる。教団の犯した17にも及ぶ事件で起訴された教祖の麻原彰晃だったが、裁判の長期化を理由に検察が4事件の控訴を取り下げ、13事件についてようやく死刑判決が下されるまでには、それでも約8年の歳月を要した。
その判決公判廷の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(全2回中の1回目。後編を読む)
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死刑を恐がる本性
そこまで被告人を評価し、言及したあとだった。
小川裁判長は机上の判決文から目を上げ、被告人と、彼をサポートする刑務官に向かって言った。
「それでは、主文を言い渡しますから、被告人を正面に立たせてください」
もはや主文の中味は誰もが知るところだった。
ところが被告人は、立ち上がる素振りさえみせない。
「被告人は、そこに立ちなさい」
小川裁判長が言った。
しかし、被告人は椅子の上にじっと固まったまま、無視している。
全身の緊張の具合から、それが彼の意思表示なのだと察した刑務官が、直ぐさま彼の腕に手をやった。これを振り払うようにした被告人に、今度は両脇から腕を掴み、立たせようとする刑務官。ところが、教祖はこれにあくまで抵抗する。お尻に力を入れ、身体をくの字にしてまで椅子にしがみついていようとする。いやだ! 主文なんて聞きたくない! 現実なんて受け入れたくない! まるで駄々をこねる子どもだった。
すぐに、十数人の刑務官が一斉に被告人に取り付き、両腕を引っ張って立たせようとする。