1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。この事件の2日後には、同年2月に目黒公証役場の事務長を拉致した疑いで、オウム真理教の教団施設への一斉家宅捜索が行われ、教団の実態が明らかになる。その恐るべき凶行の1つが坂本弁護士一家殺害事件だ。そして1998年の秋、実行犯の1人である岡崎一明への死刑判決がくだされた。その判決公判廷の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(前2回目の後編。前編を読む)
◆◆◆
自首の成立
「3人殺せば死刑だな」と事件後の麻原が刑法の条文を前に呟いたように、この自首が認められれば減刑による死刑回避は大いに期待できる。
ところが検察官は、これを自首とは認めていなかった。地下鉄サリン事件以降の当時の状況からすれば、坂本事件の共犯者たちは別件とはいえ相次いで逮捕されていたところであり、やがては事件の真相も明るみになったはずであると主張する。
しかもだ。最初の岡崎の自白は、自分はアパートの玄関で見張りをしていただけで、殺害の実行には加わっていないと、嘘を語っていた。本当は、率先して坂本弁護士宅の玄関に施錠がされていないことを確認し、自宅に押し入ってからは、坂本弁護士の背後から首を絞めて、そのまま殺害している。その核心部分は、あとになって認めるようになった。
だから、これは自首にはあたらない。捜査への貢献も大きくない。そこに最大の争点があった。
ところが、だった。
林郁夫とまったく同じシチュエーションで読み上げられていく判決では、岡崎の自首を認めてしまったのだ。
法廷でぼくも耳にしてきたこれまでの事実関係をひとつひとつ確認しながら、自首が成立することを認定したのだ。
理由は、簡単にいってしまえば、そもそも捜査本部が「失踪事件」として立ち上がったように、坂本弁護士一家が殺害されているという事実は把握できていなかった。それに、教団の関与が疑われていたとはいえ、それも確かな裏付けがあるものでもなく、まして岡崎本人が事件に関与しているとは捜査関係者も知らずに、情報提供者としての間柄にあった。それを、自身の口から、殺害の事実も、教団での共謀も、現場に居合わせたことも暴露したのだ。教団による殺害事実が捜査機関に発覚する前に自白がなされている。
それも、自発的だった。なにか証拠を突き付けられてのものでもなく、自首制度の説明や、知っていることがあったら話してくれ、程度の説得はあったとしても、黙っていればそれ以上の追及も受けずに済んだ。むしろ身に危険を感じて保護してもらいたいという、切迫した内情から進んで告白している。