1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。この事件の2日後には、同年2月に目黒公証役場の事務長を拉致した疑いで、オウム真理教の教団施設への一斉家宅捜索が行われ、教団の実態が明らかになる。その恐るべき凶行の1つが坂本弁護士一家殺害事件だ。そして1998年の秋、実行犯の1人である岡崎一明への死刑判決がくだされた。その判決公判廷の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(全2回中の1回目。後編を読む)

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オウム真理教の正体

 80年代後半のバブル経済の膨張と共に、新興宗教として日本の中に大きく膨らんでいったオウム真理教。坂本弁護士一家殺害事件とのかかわりが指摘される一方で、教祖と幹部十数人が90年の衆議院議員選挙に立候補して、かぶりものと歌と踊りのユニークな選挙活動を展開したことから、全国に風変わりな集団として知られるようになる(少なくとも、ぼくはそう思っていた)。やがて、バブル崩壊の進んだ95年3月、東京の地下鉄車輛内に猛毒の化学兵器サリンを撒き散らした「地下鉄サリン事件」によって、いわば巨大なテロ集団としての、その正体をあからさまにする。

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 岡崎一明は、オウム真理教のいわゆる出家信者だった。お布施と称して私財の全てを教団に寄贈し、会社を辞め、家族との関係を断ち切って、教団施設の中で寝食を送る。俗世を捨て、教団の戒律にのみ従って生きる。社会との関連性を断絶することによって、解脱を目指して、ひたすら修行に従事する。ところが、教団教祖から与えられる修行は時として、会社を起して事業展開することであったり、新しく信者を獲得するための布教活動に勤しむことであったり、あるいは実際に教祖と幹部信者が立候補した衆議院選挙の選挙活動であったりと、隔てたはずの社会の側に働きかけることでもあった。それがいつしか、教団に敵対する存在への攻撃となり、人を殺してよりよい転生をさせることも、また自らに課せられた修行であると説かれるようになった。そこで、岡崎が手を染めた事件が、坂本弁護士一家殺害事件だった。

 オウム真理教が宗教法人となった1989年当時、教団に対する世間の風当たりは強いものがあった。勧誘や出家を巡るトラブルも多く、週刊誌がバッシング記事を連載し、子どもが教団に出家してしまった親たちを中心に「オウム真理教被害者の会」(のちの「家族の会」)が結成されるまでになった。この被害者の会の世話人を務めていたのが、坂本堤弁護士(当時33歳)だった。それまでにも法的措置をとったり、マスコミにも登場しては、教団の問題点を指摘する。ちょうど、テレビ番組で坂本弁護士のインタビューが放映されることを知った教祖の麻原彰晃(本名・松本智津夫)は、そこで坂本弁護士の名前を挙げて殺害を計画するのだった。テロの第一歩を踏み出した瞬間だった。