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作曲家、古関裕而が従軍した「インパール作戦」 牟田口中将が作戦決行に転じた理由

『抗命 インパール2』(文春文庫)より#1

2020/11/20

source : 文春文庫

genre : ライフ, 歴史, 社会

牟田口師団長は、インド進攻案に反対

 まもなく、大本営が同意して許可したので、総軍はビルマの第15軍に対して、21号作戦の準備を命じた。9月1日であった。飯田軍司令官はおどろいた。第15軍の兵力で、やりこなせる作戦ではなかった。

 9月3日、飯田軍司令官はビルマ東部のシャン州タウンジーまで出向いて、牟田口師団長をたずねて、意見を求めた。牟田口師団長は作戦の実施は困難であると答えた。その理由は、国境の山地には道路がなく、大兵団を動かすのに困難であること、後方からの補給がつづかなくなることなどであった。

 シンガポール攻略の時、ブキテマ高地の激闘で勇名をあげて、まだまもない牟田口師団長は、インド進攻案には反対であった。

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 ついで、飯田軍司令官は同じ隷下部隊の第33師団長桜井省三中将をシャン州カローに訪ねた。桜井師団長はさらに強く反対した。飯田軍司令官は、両師団長の意見に賛成して、総軍に再考をうながすことになった。

 大本営としても、準備を命じたものの、確信があってのことではなかった。総理大臣と陸軍大臣を兼任していた東条英機大将も、自信はもっていなかった。そのうち、太平洋南東方面のガダルカナル島の戦況が悪化してきた。大本営はその方面の処置に追われた。また、ビルマ方面では、英軍がベンガル湾ぞいのアキャブ方面から、ビルマに反攻する兆候があらわれたので、21号作戦の準備は中止になった。しかし、作戦そのものの研究は認められていた。

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 第15軍としても、国境外に敗走した英国軍や中国軍が、すぐに反撃してくることは考えていなかった。ビルマを平定したあとは気をゆるして、部隊の訓練と体力の増強をはかることにした。このために第18師団や第33師団などの主力部隊を、シャン州の高原地帯の避暑静養の地に集めていた。

英軍の有力な部隊がビルマに侵入

 2月16日、有力な英軍部隊がチンドウィン河を渡って、北ビルマ方面に向ったという、ビルマ人の情報がはいった。19日夜には、第33師団の1個大隊が行軍中に、突然、英軍の大部隊と行きあって交戦した。このために大隊長は戦死し、多くの損害をだした。相手は英軍のなかでも、豪勇をもって知られたグルカ兵部隊であった。ビルマの日本軍占領地域のなかに、意外な事態がおこった。英軍の有力な部隊が潜入して活躍をはじめた兆候があらわれた。

 やがて、北ビルマの要地ミッチナ付近の鉄道や道路が、数カ所破壊された。侵入部隊は無線連絡によって、飛行機から補給をうけながら前進していることがわかった。

 牟田口中将の第18師団の一部が侵入部隊を攻撃に向ったが、捕えることはできなかった。そのうち、侵入部隊はイラワジ河を渡ってビルマの中央部にあらわれた。この河を突破されることは、ビルマ防衛に危険をもたらすと見られていた。侵入部隊の行動は、第15軍にとって、予断を許さないものとなった。