第二次世界大戦における旧日本軍のもっとも無謀な作戦であった「インパール作戦」。NHK連続テレビ小説「エール」では、名作曲家・古関裕而をモデルにした主人公・古山裕一がインパール作戦に従事する様子が描かれ、話題となった。
インパール作戦惨敗の主因は、軍司令官の構想の愚劣と用兵の拙劣にあった。かつて陸軍航空本部映画報道班員として従軍したノンフィクション作家・高木俊朗氏は、戦争の実相を追求し、現代に多くのくみ取るべき教訓を与える執念のインパールシリーズを著した。シリーズ第2弾『抗命 インパール2 (文春文庫)』より、牟田口廉也中将が周囲の反対を押し切り、インパール作戦を決行する様子を描いた「インド進攻」を一部紹介する。(全6回の1回目。#2、#3、#4、#5、#6を読む)
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太平洋戦争史上の最大の悲劇
日華事変から太平洋戦争にかけて、牟田口廉也という指揮官の名が、戦史の上に、3度大きく登場している。
第1回は蘆溝橋の事件である。第2回はマレー半島上陸とシンガポール攻略の激戦である。マレー半島コタバルに敵前上陸したのは、牟田口中将の指揮する第18師団の先遣隊侘美(たくみ)支隊であった。この部隊が壮烈な戦闘をして上陸に成功したのが、昭和16年12月8日、開戦の日の午前1時30分であった。これが太平洋戦争の最初の戦闘である。牟田口指揮官の部隊は、日華事変と太平洋戦争のそれぞれの第1発を発射した。のちに牟田口中将が自分に戦争を終結させる責任があると宣言するようになったのも、こうしたことが一因となった。
しかし、第3回のインパール作戦の時に、一番大きな問題を残した。それは、この作戦を強行したのも、また、それが太平洋戦争史上の最大の悲劇に終ったのも、牟田口軍司令官の責任だとされているからである。しかし、これは牟田口軍司令官ひとりの責任ではないということも、多くの戦史とか、事情を知る人々が明らかにしている。牟田口中将自身も、はじめはビルマとインドの国境付近で作戦をすることはできないと考えていた。昭和17年のことである。そのころ牟田口中将は第18師団長であり、第15軍司令官飯田祥二郎中将の隷下(れいか)にあった。5月1日、第18師団はビルマの古都マンダレーを攻略した。ビルマにいた英国軍はインド領に、中国軍は自国領に退却した。第15軍のビルマ平定戦は成功のうちに終った。
東部インド一帯を占領する21号作戦
まもなく、ビルマに雨季がきた。そのころ、第15軍司令部では、ビルマとインド、あるいはビルマと中国との国境方面は、地勢がけわしく、作戦は不可能と考えていた。牟田口師団長も、それに同意していた。
しかしまた、ビルマ平定の余勢をもって、一挙にインドに進入し、インドの支配権をにぎろうと計画するものがあった。その1つが南方軍総司令部である。これは南方派遣軍の総司令官、寺内寿一元帥の司令部である。普通には南方総軍、または単に総軍などと呼ばれていた。
総軍がインド進攻計画を決定したのは、昭和17年8月6日であった。それによれば、ビルマ・インド国境方面の連合軍兵力は弱く、防衛も手薄だから、この機に乗じて、東部インド一帯を占領するというのであった。この計画は21号作戦と呼ばれた。