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作曲家、古関裕而が従軍した「インパール作戦」 牟田口中将が作戦決行に転じた理由

『抗命 インパール2』(文春文庫)より#1

2020/11/20

source : 文春文庫

genre : ライフ, 歴史, 社会

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インパール作戦を失敗させる一因となった挺進隊

 この部隊が、英軍のウィンゲート准将のひきいる挺進隊であった。特別の訓練と準備をした約3000人の部隊であった。ビルマに侵入した目的は、1つは日本軍の防衛態勢を破壊することであった。もう1つは、連合軍が将来、ビルマ奪回作戦を本格的におこなう時のための試験と偵察をすることであった。

 4月になると、ウィンゲート隊は分散し、反転し、やがて国境の外に去って行った。

 この挺進隊の基地はインド東北部マニプール州の州都インパールであった。出発したのは昭和18年2月8日であるという。それから国境の約100キロにわたる山岳地帯を越えて、ビルマに潜入した。この行動は、英国人が冒険心と勇気に富むことを示した。

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 この時から、ちょうど1年後、インパール作戦の開始される3日前、ウィンゲート挺進隊が北ビルマにグライダーで降下した。前の年に潜入偵察した地域であった。この空輸挺進隊の降下は、日本軍の後方、補給をおびやかし、インパール作戦を失敗させる一因となった。

©iStock.com

ウィンゲート挺進隊に刺激された牟田口中将

 ウィンゲート挺進隊の第1回の侵入で、最も大きな衝撃を心にうけたのは、牟田口中将であった。もし、このような挺進作戦をくり返されると、ビルマの防衛は危険になると考えた。それよりも、重大なことがあった。英国兵の捕虜の自白で、国境方面に自動車道路が建設されていることが明らかになった。連合軍はビルマ奪回作戦のために、進撃道を作っているのだ。今では国境方面は、大部隊の作戦が困難でなくなってきたと思われた。こうしたことが、牟田口中将の考えに大きな変化を与えた。当時、牟田口中将の側近にいて、インパール作戦計画を最も強く推進させた情報主任参謀の藤原岩市少佐は、次のように見ている。

《牟田口中将の地形認識の一変と、その感受性の強い性格とあいまって、攻勢主義に一転した》

 ウィンゲート挺進隊が北ビルマに出没隠顕している時、牟田口中将の心境ばかりでなく、身辺にも変化が起った。

 連合軍の反攻にそなえ、ビルマの防衛を強化するために、新たにビルマ方面軍が編成された。司令官には河辺正三中将が任命された。また第15軍は純然とした野戦軍として、ビルマの中部と北部方面の防衛を受けもつことになった。この改編を機会に、飯田軍司令官は転出し、後任に迎えられたのが牟田口中将であった。この異動の行われたのは、昭和18年3月27日であった。

 ウィンゲート挺進隊の行動に刺激されて、牟田口中将の考えが、インド進攻案に変っていた時である。軍司令官に栄転すれば、着任の抱負を明らかにし、新たな方針を与えなければならない。それには、最も時宜を得たものとして考えられたのが、インド進攻計画であった。

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抗命 インパール2 (文春文庫)

俊朗, 高木

文藝春秋

2019年8月6日 発売

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