第二次世界大戦における旧日本軍のもっとも無謀な作戦であった「インパール作戦」。NHK連続テレビ小説「エール」では、名作曲家・古関裕而をモデルにした主人公・古山裕一がインパール作戦に従事する様子が描かれ、話題となった。

 インパール作戦惨敗の主因は、軍司令官の構想の愚劣と用兵の拙劣にあった。かつて陸軍航空本部映画報道班員として従軍したノンフィクション作家・高木俊朗氏は、戦争の実相を追求し、現代に多くのくみ取るべき教訓を与える執念のインパールシリーズを著した。シリーズ第2弾『抗命 インパール2 (文春文庫)』より、牟田口廉也中将が周囲の反対を押し切り、インパール作戦を決行する様子を描いた「インド進攻」を一部紹介する。(全6回の4回目。#1#2#3#5#6を読む)

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関東軍を支配していた片倉衷

 片倉衷の名は、早くから有名であった。満州事変を画策し、実現させ、関東軍を暴走させた首謀者のひとりであったからだ。これについて、満州事変当時、奉天総領事代理だった森島守人氏が、その著『陰謀・暗殺・軍刀』(岩波新書)のなかで、つぎのように書いている。

《板垣征四郎大佐を筆頭に、石原莞爾中佐、花谷正少佐、片倉衷大尉のコンビが関東軍を支配していたので、本庄司令官や三宅光治参謀長は全く一介のロボットにすぎず、本庄司令官の与えた確約が取り消されることがあっても、一大尉片倉の一言は、関東軍の確定的意志として必ず実行されたのが、当時における関東軍の真の姿であった》

 片倉高級参謀のために、牟田口計画も阻止されそうに見えたが、方面軍司令部の空気も悪化するばかりだった。

 河辺軍司令官はこうした状態を打開しなければならなかったが、その力がなかった。

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 河辺軍司令官は総軍の稲田総参謀副長に事情を打ちあけて助力を求めた。

 当時、稲田副長は総軍の作戦を、ひとりできりまわしていた。寺内総軍司令官も黒田総参謀長も、稲田副長にまかせきっていた。頭も明敏であったが、遠慮なく痛烈な意見をはく反骨の人でもあった。

牟田口軍司令官の暴走を押えてもらいたい

 稲田副長は最初にビルマに行った時に、河辺軍司令官の意向を聞いていた。それは、近く兵棋演習をおこなって、とくに15軍の考えを十分にただすから、その時に、ぜひ出席して牟田口軍司令官の暴走を押えてもらいたいということであった。

 稲田副長は、このために大本営に連絡して参謀の派遣をたのんだ。竹田宮と近藤参謀のふたりには、シンガポールで会談して、稲田副長の考えを伝えた。牟田口軍司令官の性格から見て、宮殿下のような高貴の人にぴしゃりと押えてもらうのが、一番効果があると思われたからであった。竹田宮も、稲田副長の考えに同意していた。

 竹田宮がラングーンで、牟田口軍司令官の懇願をしりぞけたのもこうした事情からであった。兵棋演習が終ったあとで、河辺軍司令官は稲田副長に感謝して、ていねいに礼をのべた。

 兵棋演習の結論としても、牟田口計画は不備不確実であり、方面軍や総軍の意図にも反するとされた。しかし、インパール作戦そのものが否定されたのではなかった。牟田口軍司令官の計画は拙速として否定され、実行可能の改案を要求されたものであった。インパール作戦の必要があるということは、結論でも認められた。