太平洋戦争直前の神戸。貿易商の福原優作の妻・聡子は、徐々に閉塞的になっていく日本社会で、どこか楽天的に生きていた。だが夫にスパイの疑いがかけられたのを機に、夫婦の運命は大きく動き出す。

 蒼井優、高橋一生が出演した映画『スパイの妻』は、一組の夫婦の鬼気迫る駆け引きを描いた、巨匠・黒沢清による極上のサスペンス。元々はNHKでの8K映像によるドラマとして製作されたが、映画版が10月16日より劇場公開される。その緊張感溢れる演出は人々を圧倒しヴェネチア国際映画祭で見事銀獅子賞を受賞した。脚本を手がけたのは、東京藝大での黒沢監督の教え子で、映画監督としても活躍する濱口竜介と野原位。二人は、神戸を舞台にした映画『ハッピーアワー』(濱口竜介監督)でも、共に脚本を手がけている(高橋知由と三人での共同脚本)。今回はどのような共同作業が行われ、この驚くべき映画が誕生したのだろうか。

黒沢清監督

「やるなら絶対に『スパイの妻』がいい」

――黒沢監督が初めて、いわゆる時代ものを撮った、という事実にまず興奮したのですが、当初、濱口さんと野原さんが書いたプロットでは時代ものと現代ものの二種類があったそうですね。

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黒沢 この企画の成立までには非常に複雑な過程がありました。野原から突然「神戸を舞台に8Kで映画を撮りたい。脚本を書くので監督をしてほしい」と連絡が来たのが始まりでした。もちろん二人とも才能ある監督たちなんですが、僕は正直、野原も濱口も未だに学生扱いというか、「まあ学生映画だろうな」と考えて「やってもいいけど内容次第だね」なんて軽い扱いをしてしまったんですね。しばらくして二人が出してきたプロットの一つが現代もの、もう一つが戦前の神戸を舞台にした『スパイの妻』でした。どちらも非常におもしろかったけれど、現代もののほうは、神戸であることの必然性があまり感じられず、どこでも撮れるようなものだった。一方『スパイの妻』の方は神戸ならではの何かをベースに書かれていた。それと僕は過去に何度かこれに近い時代の映画を作ろうとしては挫折した経験があるので、やるなら絶対に『スパイの妻』がいいと。ただその時点でもまだ「本当にやれるの?」と半信半疑だった。それが一年程経った後、突然プロデューサーから連絡があり、あれよあれよというまに実現していきました。二人のプロデュース力が思いのほかあったわけですが、それ以上に、プロデューサーやNHKを動かすだけの力がやはり脚本自体にあったんでしょうね。

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――題材自体も濱口さんと野原さんたちが完全にオリジナルで考えたんですよね。

黒沢 ええ。一応基になった事件などは多少あったようですが、脚本としては完全にオリジナルのフィクションです。こういう時代ものでは珍しいですよね。濱口は「エリック・ロメールの『三重スパイ』のようなものをやりたくて書きました」というようなことは言っていましたけど。これもまた国家と国家のギスギスした状況を背景にしたスパイものでありながら、実際に行われていることはほぼ室内で人が喋っているだけ、という映画ですから。