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 総軍では、こうした事情を大本営に伝えて、準備をうながすことになった。このために稲田副長が東京に派遣された。

 それまでの大本営は、インド進攻計画は実行困難だと考えていた。その理由は

(1)日本の航空兵力が劣勢である。

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(2)補給が困難である。

(3)防衛地域が広くなるので、そのために兵力を増加しなければならなくなるからだ。

 それでも、牟田口軍司令官から直接の要請があったので、大本営では第1(作戦)部長の綾部橘樹少将をビルマに派遣した。綾部少将は牟田口軍司令官に会って、大本営としては、全く不同意であることを伝えた。4月19日のことであった。

インド国民軍を気に入っていた東条英機

 稲田副長は7月12日から1週間、東京にいた。その間に、インパール作戦を実施する場合に必要な後方部隊の増加配属を大本営に要請して承認を得た。このころには、大本営もインパール作戦に期待をかけるようになっていた。

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 稲田副長は任務が終ってから、東条英機大将に会見した。東条大将は、しきりに、インドに行くのはだいじょうぶかと心配した。稲田副長は、

「チャンドラ・ボースをインドにいれてやれば、いいのですよ。それには、できるだけ損害をすくなくする方法を考えることです」

 と、作戦のねらいを示すと、東条大将は喜んだ。インド国民軍をひきいているボースを、東条大将は気にいっていて、期待をかけていた。別れぎわに、東条大将は小心らしく、

「まあ、よく用心してやってくれ」と、くりかえした。

「いや、心配せんでください。むちゃはさせませんから」稲田副長は牟田口計画をあくまで押えるつもりだった。

インパール作戦のための準備

 8月になって、大本営は総軍に対して、インパール作戦のための準備について指示を与えた。総軍は、このことをビルマ方面軍に伝えて、準備を命じた。8月7日である。この準備要綱のなかで、はじめて“ウ号作戦”の文字が使われた。

 ビルマ方面軍は、さらに第15軍にこの準備を命じた。その時、とくに第15軍の久野村参謀長を方面軍司令部に呼び寄せた。そして、インパール作戦についての方面軍の考えを説明し、いままでの牟田口計画のような独断をいましめた。久野村参謀長もじゅうぶんに了解し、両者の考えは完全に一致した。8月12日のことであった。

 この準備命令に基づいて、第15軍は隷下の各部隊長をメイミョウの軍司令部に集め兵棋演習を催した。各部隊長の、作戦についての考え方を、統一させるためであった。この演習には、方面軍の中参謀長も参列した。