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牟田口中将が武断した「インパール作戦」 なぜ、最大の問題だった“後方補給”は省略されたのか

『抗命 インパール2』(文春文庫)より#3

2020/11/20

source : 文春文庫

genre : ライフ, 歴史, 社会

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 第二次世界大戦における旧日本軍のもっとも無謀な作戦であった「インパール作戦」。NHK連続テレビ小説「エール」では、名作曲家・古関裕而をモデルにした主人公・古山裕一がインパール作戦に従事する様子が描かれ、話題となった。

 インパール作戦惨敗の主因は、軍司令官の構想の愚劣と用兵の拙劣にあった。かつて陸軍航空本部映画報道班員として従軍したノンフィクション作家・高木俊朗氏は、戦争の実相を追求し、現代に多くのくみ取るべき教訓を与える執念のインパールシリーズを著した。シリーズ第2弾『抗命 インパール2 (文春文庫)』より、牟田口廉也中将が周囲の反対を押し切り、インパール作戦を決行する様子を描いた「インド進攻」を一部紹介する。

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稲田副長に実施を懇願

 しかし牟田口軍司令官は、あきらめないで、この作戦に必要な人事について語った。

「小畑参謀長は補給の点で全く反対であるとして、意見が合わなかった。そのため更迭を申請しておいたが、最近は同調するようになったから、替えなくてもよい。困るのは第33師団長の柳田中将である。33師団を第1線にだしてインパールに突入させたいが、柳田はどうしても出たがらない。あんな性格では師団長には使えない」

 当時の牟田口軍司令官の手持ちの師団としては、東面して第56師団、北面して第18師団、西面して第33師団があるだけであった。のちに実際にインパール作戦に参加した第31師団は、まだ編成の途中であり、第15師団は中国にあった。インパール進撃には第33師団をたのみにするほかはなかったから、その師団長に対する牟田口軍司令官の不満は大きかった。インパール作戦間に師団長を解任された柳田中将の悲劇は、すでにこの時にはじまっていた。

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 牟田口中将はさらに、この計画を雨季あけと同時に実施させてもらいたいと懇願した。ふたりが会談したその日は昭和18年5月17日であった。雨季は始まっていた。9月の終りを雨季あけとすれば、それまでの4カ月間に、インド進攻作戦の準備をすることは困難であった。稲田副長は、牟田口中将は気がはやり、あせっていると感じた。

東条首相に手紙で直訴

 稲田副長は、雨季あけの実施はむずかしいこと、やるならば、交通や補給を十分考えて、確実なやり方でなければならないと結論した。そして、次の機会までによく研究してほしいと再考を求めて、稲田副長はメイミョウを去った。

 それでも牟田口中将は決意を変えようとしなかった。方面軍、総軍に訴えかけるだけでなく、ついに東条首相に直接に手紙を送って、計画の承認を求めた。牟田口中将は今やインド進攻のこと以外はかえりみないで、ひたすらに、それに向って直進していた。その不退転の決意を示すかのように、参謀長の更迭を実現させた。

 小畑参謀長は解任され、満州のハルビンの特務機関長に転出した。左遷であった。参謀長として着任して、わずか3カ月であった。このような短時日で参謀長が更迭された例はほかになかった。後任参謀長の久野村桃代少将は従順で八方美人のところがあり、上官に苦言をあえていう人ではなかった。牟田口軍司令官が自分の意図を実現させるには、まさに人を得たというべきであった。