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期待した機会は、むなしく消えた

 当時の皇族のなかでは、竹田宮は明敏なことで知られていた。陸軍大学校の卒業の時は、恩賜の新刀をもらう6名の優等生と同等の実力を持っていた。竹田宮は牟田口軍司令官の熱のこもった説明を聞いたあとで、はっきりと、現在の15軍の案ではインパール作戦は不可能だという答えをした。それは、今のような不完全な後方補給では大規模な進攻は困難だという理由であった。

 牟田口軍司令官はひどく落胆したが、それでも、しつこく認可を願ってやまなかった。

 その翌日、兵棋演習は終り、ビルマ方面軍の中(なか)参謀長が講評した。そのなかで大きな難点としたのは、軍の主力をインパール以北に向ける使い方であった。ことに北のコヒマに烈の1個師団全部を使うのは適当でないとした。烈は、一部をコヒマにまわすだけにして、その主力は軍の予備隊として残しておくべきである、と指摘した。

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 稲田副長は、もともと、インパール攻撃の主力は南から持って行く考えであった。また補給の面では、第15軍の計画を根本から否定し、研究修正しなければ許可をしがたいと結論した。

 牟田口軍司令官の期待した機会は、むなしく消えてしまった。しかし、そのかげに、ビルマ方面軍司令官の河辺中将が、ひそかに策動したことを、牟田口軍司令官は気づいてはいなかった。

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 インド進攻を主張する牟田口軍司令官を、河辺軍司令官はもてあましていた。蘆溝橋事件以来、牟田口軍司令官は、河辺軍司令官にはわがままがきくという気持ちがあった。それだけに、インド進攻計画を、なんとしても承認させようとして、しきりに要求をくり返した。

 牟田口軍司令官が豪傑型で押しが強いとすれば、河辺軍司令官は知能型で迫力にとぼしかった。外向と内向の反対の性格であった。河辺軍司令官は気が弱いために、牟田口軍司令官を押えて、インド進攻計画を変更させることができなかった。

高級参謀の片倉衷大佐も反対

 ほかにも問題があった。ビルマ方面軍では、高級参謀の片倉衷(かたくらただし)大佐が、牟田口計画に真っ向から反対していた。

 片倉高級参謀は相手かまわず大声でしかりつけ、口をきわめてののしるので有名であった。ラングーンの軍司令部の門をはいると、独特の大きなののしり声が聞こえない時はないといわれた。牟田口軍司令官がインド進攻の実施を要求してくると「牟田口のばか野郎が」とののしって、反対意見を参謀に伝えさせた。参謀は牟田口軍司令官のところに行くと、しかり飛ばされた。そして帰ってくると、今度は片倉高級参謀からどなりつけられた。

 このため、幕僚は片倉高級参謀を避けるし、部内の将兵の気持ちは萎縮していたから、軍司令部の空気は陰惨であるとまでいわれた。それほど激しい性行の人であった。それだけにきらわれてもいた。また、政治的に動きすぎていて、方面軍の純正な作戦指導を妨げているという非難もあった。

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