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“武力占領は無理でも、インドに革命をおこさせたい” 牟田口軍司令官が体現した、日本軍“失敗の本質”

『抗命 インパール2』(文春文庫)より#2

2020/11/20

source : 文春文庫

genre : ライフ, 歴史, 社会

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強引に計画の実現を要求

 しかし、反対するのは幕僚だけでなかった。ビルマ方面軍や総軍では、牟田口中将の独走計画として、頭から反対するか、あるいは黙殺した。支持する者はなかった。しかし、牟田口中将はひるまなかった。反対されるほど、ますます積極的になった。

 5月になって、新任の南方軍総参謀副長の稲田正純少将が戦線視察のためビルマにきた。牟田口中将はこれを好機到来と思った。

 稲田副長はビルマの首都ラングーンにある方面軍司令部に行き、河辺軍司令官と会談した。この時、インド進攻計画について説明を聞いた。その話のなかで、河辺軍司令官は牟田口軍司令官に手をやいている印象をうけた。それは、牟田口軍司令官が強引な1本調子で、その計画の実現を要求しているからであった。その言動は、性急に、あせっているように見えた。

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 河辺軍司令官がインド進攻計画に賛成しなかったのは、この人の性格に、投機の危険をきらうものがあったからである。

 稲田副長は、そのあと、第15軍司令部を訪ねた。司令部は、シャン高原のメイミョウにあった。風光の美しい避暑地である。牟田口中将は待ちかねたように、稲田副長を迎えると、早速にインド進攻計画を訴えた。

理由はインドと中国を結ぶレド公路

 稲田副長は頭脳の鋭敏な人であった。インド進攻計画として、インパールを攻略しようとするのを、稲田副長は一案だと考えていた。インパールにはインド東方軍の第4軍団の司令部があった。司令官はスクーンズ中将であった。ここが連合軍のビルマ反攻のための根拠地となっていた。稲田副長の考えでは、インパール攻撃は、むりをしてまで実施することはないが、準備次第では、限定目標として攻撃するのがよいと判断していた。その理由には、次のようなことがあった。

 当時、ビルマに向って、北からはアメリカ軍と同じ装備をもった中国軍が、フーコン河谷を南下していた。アメリカのスチルウェル中将にひきいられたこの部隊は、インドのレドからビルマのミッチナに軍用道路を啓開しようとしていた。さらにミッチナからは中国の雲南省の省都、昆明に通ずる滇緬(てんめん)公路と連絡し、陸路でインドと中国を結ぼうとしていた。レド公路である。