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“武力占領は無理でも、インドに革命をおこさせたい” 牟田口軍司令官が体現した、日本軍“失敗の本質”

『抗命 インパール2』(文春文庫)より#2

2020/11/20

source : 文春文庫

genre : ライフ, 歴史, 社会

武力占領は無理でも、革命をおこさせたい

 この公路には、4本の石油輸送管が敷設されることになっていた。これによって、レド油田の石油を直接、昆明に送り、中国大陸の戦力を増強させようとした。こうしたことから、この公路は、スチルウェル公路、または東京公路などとも呼ばれた。太平洋戦争のなかでも最も大規模な作戦であり、日本軍にとっては、最も恐るべき計画が、北ビルマに実現しようとしていた。

 また、西の方からは、インド人部隊を主力とする英国軍が、ビルマ奪回のために進撃してくることは必至と見られていた。

 こうした連合軍の反攻計画に対して、インパールを先に占拠することは、大切な枢軸を押えることになる。これは内線作戦として当然考えられると、稲田副長は見ていた。

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 また、日本がインドを武力占領することはむりであるとしても、なんとかして、インド人の間に革命をおこさせたいという考えが、日本軍の上層部にあった。当時、インドの反英運動の指導者チャンドラ・ボースは、日本軍の援助で自由インド仮政府を作り、インド国民軍を与えられていた。ボース首席は、東条首相に対し、インド国内に仮政府の領地をもつことを要求していた。日本側も、ボース首席と国民軍をインドにいれて、反英運動をおこさせたいと考えていた。そのために仮政府をおく地点として、インパールは適当であると見られた。

レド公路

夢想に近い壮大な遠征計画

 次に、当時、大本営の立場は八方ふさがりといった状態にあった。昭和18年初頭に 日本軍はガダルカナル島の撤退をはじめてから、全部の戦線に圧迫をうけて、次第に後退していた。そのなかで、ビルマだけは、苦戦であったが、まだ、もちこたえていた。ここで、ひといくさをして、東条首相、兼陸相のために“景気をつけられたら、つけてやるべきである”と、稲田副長は考えた。東条大将の人気が下降しているときであった。

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 牟田口軍司令官はすこし興奮して、声を大きくしながら、インド進攻の抱負を語った。

「ビルマ防衛のために、インパールに最前線をおく。それにはインパールの北のコヒマでインパールヘの補給を断つとともに、アッサム州の平野に出て、ティンスキャ方面を分断し、援蔣ルートを空路、陸路ともに遮断する。このためには15軍の主力部隊を北に出すことが必要だ」

 夢想に近い壮大な遠征計画であった。起案したのは作戦主任参謀の平井文中佐である。