すれ違い
殺人放火事件の直後の翌96年、詩織は心の傷を癒そうとでもするかのように、故郷中国に約1ヶ月間、長期帰国している。そのとき、詩織の中国の家族からは火事で大変な状況になった事や、日本での予想以上に厳しい生活実態を聞き、彼女が日本に戻ることに反対する声があがったという。
特に詩織の父親の反対が強く、母と2番目の姉もこれに同調、先行きを心配する声が出たという。
〈母と姉は「どうして毎日、お前はうなされているの」と聞いてきました。私は「うなされていないよ。毎日よく眠っているよ」と答えました。でも母はこう言いました。
「寝ているとき、お前はいつも泣いているよ。そうでない時は、何か変な寝言を言っている。以前のお前はそんなふうではなかった。本当に静かに眠っていたのに。茂さんとひどい喧嘩をしたの。それとも私たち家族にも言えないようなショックでも受けたの?」
「なによ、それ、めちゃくちゃじゃない。私たち喧嘩なんてしてないわ」
そう反論しながらも、実は私は、分かっていたのです。夜になると震えがきて、同時に心臓の鼓動が乱れ、息ができなく、苦しくなります。だから、何か叫んでしまったりするのです。私には火事の後遺症が残っていたのです。〉
日本に戻りたくはなかった
この後遺症は、結婚から13年たち、獄中で手記を書き始めた頃になっても、しばしば彼女を悩ませていたようだ。それはともかく、この時点で詩織自身も、このまま日本に戻らず中国にとどまるべきではないか、と迷っていた。
〈故郷中国の、みんなの興味は私が日本に戻るのか、中国にとどまるかでした。私の頭は混乱して、まるで先端が分からない絡まった糸の塊のようでした。本当のところ、私は日本に戻りたくはなかったのです。〉