「椎名典獄の行ったことはすべて真実なのですが、その後、解放措置を認めたくない法務省の勢力は、資料を廃棄し、『椎名が放った囚人たちは逃亡して横浜を荒らしまわって社会を混乱させた』などとまったく真逆のデマを流していました。私も刑務官に着任したら、そのように教えられていたのです。
しかし、往時を知る所長は、獄舎に住む囚人も官舎に住む看守も皆、同じ家族だという考えでした。父が浦和刑務所の官舎にいたとき、私は小学校1年生でしたが、記憶にあるのは、映画を観るときも皆一緒なのです。受刑者の膝の上でアラカン(嵐寛寿郎)の『鞍馬天狗』を見たことを覚えています。
官舎の引越しも今でこそ運送屋を使いますけど、昔は全部荷物の梱包から荷下ろしまで受刑者の手ですよ。家の修理にも来てくれたから、うちのおふくろなんか、囚人のことを『おじちゃんたち』と呼んでいました。管理と懲罰しか念頭に無い現在では考えられないことです」
死刑囚、検事、刑務官…全員が「死刑」と向き合った時代
死刑囚に対する処遇もかつては極めて寛容なものであったという。
「昭和30年代くらいまでは、死刑囚ほぼ全員の恩赦の上申を刑務所所長名で必ずしていたんです。それが叶わず、恩赦の上申が却下されると、同時に執行命令が来る。で、所長室に呼んで、『残念だけど』という話をして告知をする。それから2日後に執行になります。今では執行の告知はまるでだまし討ちのように当日の朝です。そもそも恩赦の上申などしません。したら所長は飛ばされます」
死刑執行の2日前に告知ということは、刑務官は48時間、独房の前で末期まで戒護することになる。職員も真剣に向き合っていた時代である。
「1955年に大阪拘置所の玉井策郎所長が、1人の死刑囚への告知から刑の執行に至るまでの会話を本人にも刑務官にも内緒で録音していました」坂本はそれを聴いている。「1日目、恩赦の却下と明後日の執行を所長が死刑囚に言い渡します。そして教誨師が来る。親族と面会。で、送別の茶会、これは死刑囚が集まってのお茶会です。そして2日目、俳句会をやり、親族との最後の面会。ここは涙声でした」
3日目の執行日は、朝食を食べてお坊さんの勤行を受ける。それから、また死刑囚たちが送って、刑場に来る。それらの音が全部残っていた。坂本は言う。