「これは刑の執行と言うよりは、まさにおくりびとの世界ですよ。死刑囚は自分に死刑を求刑した検事と握手さえします。そこで検事も自分の下したジャッジを受け止めるのです。かつてはこれだけ大きな手続きをしていた。確かに半世紀以上前、私も大阪拘置所で初等科の研修を受けたときに、当時の所長が『拘置所の所長の仕事で一番大切なのは死刑囚との面接だ』と言っていました。しかし、もう今、死刑囚と面接する所長は居ないです」
当時はICレコーダーどころか、カセットテープすらなく、オープンリールの時代である。かくも仰々しい仕込みまでしながら、玉井所長は、どんな思いで録音したのであろうか。
「玉井さんは、大阪拘置所に6年居て、25人の死刑執行をしているんです。そして異動内示が出た時にこれが最後となる今回は録っておかないといけないと考えたのです。死刑廃止の機運を盛り上げるためです。いずれ日本は死刑が廃止になるだろうし、そうならないといけない。昭和30年にこれが最後の貴重な資料だとして録られたのです。ところが、いまだに死刑制度は変わっていない」
刑務所はいつからおかしくなったのか
当時は拘置所所長自らが、死刑制度の廃止を国会でも訴えていた。それでは一体いつから矯正施設はおかしくなったのか。
「1970年以前、大学紛争とか新宿騒擾とか、あの時代から刑務所がおかしくなりました。要するに、立派な所長が居なくなる。それから、昭和30年代後半から、省庁がキャリア採用を始めたんです。この人たちが刑務所を悪くした。キャリア官僚は受刑者を更生させるなんていうポリシーが全くなく、向き合おうとしません。所長も場合によっては1年で交代です。そんなトップは、自分の施設と思わないから、いい処遇などしないのです。死刑囚処遇も余計なことはするなと。そこで何人も人員を使うなら、その職員を警備に回せということで、死刑囚処遇がガタッと変わるのです」
坂本は刑務所が悪くなる時代に居合わせた。更生というポリシーを持たぬキャリア官僚や上長とは対照的にそこでは数多くの受刑者と長く向き合って来た。誰もが名前を知る昭和の事件を起こした当事者たちもそこには含まれる。
椎名典獄の真実を堀り起こした坂本は、それと同様に一般的に流通しているイメージとは異なる彼らの素顔を語りおろそうとしている。いささかの忸怩を持ちながら、それでも行う意義を信ずるのは、事実を差し出すことで、看守も囚人も家族と言った時代から、更生を放棄するようになった刑務所長、さらには死刑囚処遇の変遷に対するカウンターになりうるという思いからであった。
第1回は永山則夫について。