「今後は一切の社交界やハイカラを断ちて…」
夫の茂吉にとって、事件は大きなショックだった。藤岡武雄「斎藤茂吉探検あれこれ41」(「歌壇」2016年11月号所収)は「早速、青山脳病院をやめ、斎藤家を出て行く意思を表明したが、周囲の人々に説得され、思いとどまった」と書いている。
弟子の柴生田稔「続斎藤茂吉伝」には、事件のあった年、茂吉が日記に輝子と度々けんかしたことを書いていると記述。事件直後、歌誌「アララギ」の同人で親友だった中村憲吉が茂吉に送った手紙の内容を紹介している。「ご令閨(妻の敬称)のご性格が人の誤解を受けやすき損な立場に候ゆえ、今後は一切の社交界やハイカラを断ちて専心ご家庭にお立てこもりのよう切望候」。これに対し茂吉は「小生も不運中の不運男なれど、いまさらいかんともなしがたし」などと返信している。
「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」には「夫人の言動が新聞沙汰になって精神的痛手を負い、そこから立ち直ろうとして大著『柿本人麿』を完成させた」と書く。輝子の醜聞は茂吉の文学的転機にもなったことになる。「二十年つれそひ(い)たりしわが妻を忘れむ(ん)として衢(ちまた)を行くも」という歌はこのころ詠んだとされる。
「乱倫」をめぐる真偽の行方
川西政明「新・日本文壇史第二巻」は踏み込んで事件と茂吉・輝子のことを書いている。「妻の事件を知った茂吉は激怒した」「彼は反乱する妻に徹底的な拒絶の態度に出た」。
同書によれば、世田谷区の青山脳病院本院敷地内にある輝子の弟の家に同居させたうえ、謹慎させて事実上軟禁状態に置かせた。その後も居住地を動かしたが、結局、太平洋戦争末期の空襲が激しくなった1945年3月まで約12年間、別居生活を続けた。
ただ、「猛女とよばれた淑女」は「父によると、『ダンスホール事件』の前にも、輝子は二度ほど情事を行っていたそうで、青山脳病院の一部の間では公然の秘密だったという」と書きながら、著者が「パパは輝子おばあちゃまが病院の医師と不倫したり、ダンスホールの教師と肉体関係があったと思う?」と聞き、「父は小さな声できっぱり言った。『……ないと思うね』。『なぜそう思うの?』『輝子はそういう女性だから』」という会話を記している。