昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

連載昭和事件史

令嬢、女優、伯爵夫人…有閑階級がダンスホールで入り乱れた「乱倫」事件とは?

――「有閑マダム」「ジゴロ」「乱倫」…戦前最後のあだ花「ダンスホール事件」 #1

2020/11/22

美貌、ウインク、巧みなダンス…美女たちを次々魅了したダンス教師

 記事は田村の「手口」に及ぶ。

 田村もニューヨークレビュー界の人気者エデー・カンターの名をもじり、その美貌と女性を魅するウインク、それに際立って巧みなダンスの相手ぶりに女を惑溺さしていたもので、警視庁当局の言うところでは、同人は元カフエー・クロネコの女給某(25)と同棲しているうちに銀座裏のカフエー・ベルスの女給某(21)、新橋の芸者某(23)、赤坂溜池の清元師匠某(28)、大阪・阪神電鉄会社の某課長夫人、千葉県八日市場の資産家某の令嬢、某会社専務夫人、青山某病院医学博士夫人らの名前が彼の取り巻き常連として並べられ、阪神電鉄某課長夫人は彼と1回踊ってチケット50枚、某令嬢は100枚、某会社専務夫人は50枚を惜しげもなく彼の手に握らせて歓心を買い、その中でも某病院長夫人のごときは、あまりに頻繁なホール通いに、お抱え運転手にも遠慮して、円タクまたは三越からわざわざ地下鉄で通い、甚だしい時は午前10時前に来て田村の出勤を待ち正午まで、さらに共に昼食後3時まで踊り抜いても飽き足らず、夜も現れて派手な好みの洋装で全ホールの人目を引きつつ踊り続けるという有閑マダムぶりを発揮。田村らと食事を共にするほかに昨年来、横浜市磯子の待合、田端の料理屋、多摩川の待合などを遊び回り、ダンスホールでも相当評判を高めていたといわれ、博士夫人も7日午後、警視庁に呼び出され、その行状を聴取された。田村は右のようなやり方で月収300円(2017年換算約62万7000円)を下らず、豪勢な生活をしていたものである。

「ダンスホール事件」の初報(東京朝日)

 エディ・カンターはアメリカ・ハリウッドのコメディアンでミュージカルスター。当時全盛期で彼の名前を冠した映画が日本でも公開されていた。各紙とも記事の記述は微に入り細をうがっているが、それによれば、田村は福島県の旧制中学を中退後、上京。深川の材木屋で働いていたが、店がつぶれてしまったので、あちこちのダンスホールに出入りしてダンスを覚え、1931年6月、銀座ホールの前身シプレーダンスホールに勤務し、引き続いて銀座ホールの教師になったという。ちなみに、作家石川達三は雑誌の取材で行ったブラジルから帰国後、ブラジル移民を描いて第1回芥川賞を受賞する「蒼氓」を書き上げるまで、シプレーダンスホールで教師をしていた。

「ただれた恋愛」「群がる有閑夫人」

 東京日日(東日=現毎日新聞)は「博士夫人や女師匠 不倫のステップ」、読売は「不良ダンス教師に 群がる有閑夫人」、都(現東京新聞)は「爛(ただ)れた戀(恋)愛遊戯 白日下に暴露された 有閑夫人の醜状」が見出し。

 田村の客だった女性たちについて、読売だけが全員実名で報じている。その中の「病院長・医学博士夫人」は、当時、歌集「赤光」などで日本を代表する歌人として知られる一方、精神科医で青山脳病院長だった斎藤茂吉の妻輝子だった。他紙にも談話が載っていて微妙にニュアンスが異なるが、「迷惑なデマ……」が見出しの読売の談話を見よう。