長谷川一夫というと、私ぐらいの年齢以上の人なら、「おのおのがた……」のセリフで記憶されるNHK大河ドラマ「赤穂浪士」の大石内蔵助か、それ以前の「銭形平次」などの大映時代劇映画の大スターとして覚えているかだろう。

 彼が昭和初年には「林長二郎」の芸名で希代の二枚目俳優として一世を風靡したこと、その絶頂期に暴漢に売り物である顔を切られ、俳優生命も危ぶまれるケガを負ったことを知っている人は少ないはずだ。

 時は日中全面戦争勃発直後の1937年。彼が松竹から東宝に引き抜かれ、「忘恩の徒」と世間から非難を浴びていたさなかに事件は起きた。黒幕がいたことは確実だったが、彼は犯人についてほとんど語らないばかりか、背後関係を追及しないよう警察に懇願。結局、全容は解明されないまま事件は終わった。そこには何があったのか(今回も差別語が登場する)。

ADVERTISEMENT

「顔斬り事件」で幻となった「源九郎義経」のスチール写真(「長谷川一夫画譜」より)

カミソリが美男子の顔に刻んだ「長さ12センチ」

「【京都電話】松竹を脱退してセンセイションを巻き起こしている問題の林長二郎(30)は12日午後5時50分ごろ、京都右京区蚕の社、東宝京都撮影所で撮影を終え、正門を出て同撮影所前の大澤(善夫)東宝専務別邸に行く途中、茶色のジャンパーにニッカー(ボッカー)をはいた24、5歳の青年が、背後から鋭利な剃刀(かみそり)様のもので長二郎の左顔を耳下から鼻の下にかけて斜めに切りつけ、長さ12センチ、深さ1センチ、骨膜に達する重傷を負わせ、逃走し、傍らにいた同撮影所員や俳優ら多数追跡したが、いずれにか姿を消した」。

 1937年11月13日付東京朝日(東朝)朝刊は社会面3段でこう報じ、頭と顔に包帯を巻かれ、ベッドに横たわる写真を添えた。見出しは「“生命の顔”に大傷 長二郎斬らる 暴漢、撮影所に待伏せ」。

 京都の地元紙ははるかに扱いが大きかった。京都日出新聞は社会面トップで

「林長二郎斬られて重傷 映書(画)人風脱兎の怪漢 左頬をさつ(っ)と一抉(えぐ)り」の見出し。記事中には「大宮病院の診断によれば」として「全治までには10日を要し、傷痕は化膿しない限り大して残らぬだろうし、白粉とドーランで十分隠せる程度。出血は相当あり、最初はだいぶ興奮していたが、いまは平静で至って元気」とある。

 もう一つの地元紙・京都日日新聞の見出しも「林長二郎斬らる!  映畫界空前の怪事」だが、書きぶりはやや皮肉っぽい。リード部分で「弦月の影寒い晩秋の夕べ、太秦蚕の社のスタジオ街で壮漢に襲われ、商売上の資本とも生命ともする顔面を切られ血に染まった」と記述。本文でも「カメラの前とは違って一向にらみが効かず」と書いている。

 府立病院で診察した医師の「こちらでは包帯も解かず、従って負傷の程度は分かりかねます。しかし、凶器が鋭利なものとしても湾曲した醜い痕跡は残りますし、化膿の恐れも多分にありますので、俳優としてはかなりの痛手をこうむるのではないかと憂慮しています」という、やや悲観的な見方も伝えている。