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運命の分かれ道は母にこぼした一言「相手がそんなに水くさいなら……」

 問題の1937年。2月に2年前亡くなった中村鴈治郎の追善興行に出演。長男・林成年の初舞台でもあったが、松竹からその費用の返済を求められたことがその後の決断の引き金となる。事件から11年後に出版された「私の二十年」には次のようにある。「『相手がそんなに水くさいなら――』と、この時ちょうど楽屋に居合わした母に、フト、松竹を離れたい、というような気持ちを口にしてしまいました」。

 矢野誠一「二枚目の疵」は「東宝移籍の話は母親のマスが手を回した節がある」と言う。

「マスは松竹の一夫(長二郎)に対する処遇にかなりの不満を募らせていた。給料(月給)にしても、名実ともに時代劇のトップスターとして君臨していた阪東妻三郎の3000円は別格としても、片岡千恵蔵1500円、大河内傳次郎1000円といわれていたのに、『雪之丞変化』で空前の興行収入をあげさせた長二郎は、11年前の入社当時と変わらない200円だった」。

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 2017年換算でそれぞれ3000円は約555万円、1500円は約278万円、1000円は約185万円、200円は約37万円になる。この通りだとすれば、確かに不当のように思える。

「2億8000万円」で松竹から東宝へ

「【京都電話】映画界引き抜き合戦は支那事変による非常時局下にやや鳴りを静めていたが13日、突然、東宝側は松竹京都撮影所のピカ一、林長二郎を引き抜いたと発表した」。1937年10月14日付読売朝刊は「長二郎が東寶(宝)へ 引抜き合戦 時局下に再燃」の見出しで社会面4段で報じた。

「長二郎は13日夜8時、京都市河原町三条上ル、大澤東宝専務宅で大澤氏、今井(理輔・東宝京都撮影)所長、大河内傳次郎3氏と会見。芸術上の悩みを打ち明け、東宝転社によって芸風転換を希望したので、東宝では長二郎対松竹の契約満了を確かめたうえ契約調印(5カ年)を終了。今井所長は同夜、松竹副社長・白井信太郎氏に長二郎の辞表を手交したが、白井副社長がこれを拒否したので、今井氏は直ちに篠山(克己)松竹京都(撮影)所長まで郵送した」。

東宝との契約を報じた京都日出新聞

 東朝、東京日日(東日)は写真入りベタ(1段)だが、京都日出は「秋の銀幕界を驚かす」の見出しで社会面トップ。京都日日も社会面4段で「引抜料丗萬円(三十万円)の噂飛ぶ 弗(ドル)箱奪は(わ)れて松竹一戦を決意」の見出しだった。

 30万円は2017年の約5億5500万円。長二郎と松竹の契約は9月に切れており、「日本映画発達史Ⅱ」は「それを知った東宝は既に4月の半ばごろ、報奨金15万円を払って長二郎と契約した」と書いており、この方が正確なようだ。2017年換算で約2億7800万円になる。

 東朝以外は長二郎の談話が載っているが、内容はほぼ同じ。「生みの親でもあり育ての親でもある松竹を去ることになりました。松竹には感謝あるのみで何一つ不足はないが、ご恩返しもまた十分したつもりです」(京都日日)としている。