「鏡を! 鏡を!」

 詳しい事件の模様について本人の言葉を借りよう。分かりやすくまとまっているのは事件から36年後の1973年に出版された「舞台・銀幕六十年」だ。

 東宝入社第1回作品は、渡辺邦男監督による「源九郎義経」の予定でした。その宣伝スチールを京都のJO(東宝)撮影所で撮影した11月12日の夕刻、私はメーキャップを落とし、和服の着流しで俳優部屋を出て、撮影所から30メートルばかりのところにある東宝の大澤重役の別邸に向かいました。大澤さんのご好意により、撮影中、私はそこに住まわせてもらっていたのです。師走も間近く、霜でも降りそうな肌寒い夜だったので、マフラーを首に巻き、付け人2、3人と大澤邸の門まで歩いてきました。大澤邸は庭が広く、門から玄関まで植え込みが続いて、かなり距離がありました。付け人のN君がくぐり戸のカギを開け、みんなの目がくぐり戸に集中しているとき、私の背後から突然「林さん」という、低い重苦しい声が聞こえてきました。聞きなれない呼び声にふと顔を振り向けると、口臭が感じられるほど間近に人の気配がするのです。瞬間、私は全身に戦慄を覚え、迫ってくるものを反射的にマフラーで払いのけたのですが、そのとき既に遅く、左の顔面に異様な熱気を感じました。「あっ、何をする!」。大声を張り上げて相手を突き飛ばしました。途端に私は左の顔を押さえてうずくまりますと、左の頬からねっとりとした生温かい液体が流れ出し、マフラーや着物を濡らしました。思わず左の頬に手をやると、中指と人差し指が2、3センチもぬめり込み、頭のてっぺんから爪先に至るまで激痛を感じました。「顔を切られた!」。ようようの思いで立ち上がると、私に突き飛ばされたジャンパー姿の男は邸前の沼地にヨロヨロと転がっていきました。

 付け人らが追い掛けたが見失ってしまう。

京都日出新聞社会面トップは「長二郎切られる」

 付け人の知らせで渡辺監督や宣伝部の人たちが駆け付けてくれましたが、私の顔を見るやいなや呆然としていました。俳優が顔にケガをするほど悲惨なことはありません。私はこれで俳優としての生命は終わりと思いましたが、ともかく傷はどの程度かと、とっさに鏡が見たくなり、「鏡を、鏡を」と叫びましたが、誰も見せようとしてくれず、大澤邸へ到着したオープンのほろ自動車に乗せられて近くの大宮病院に運ばれました。大宮病院では吉岡博士が私の治療に当たり、麻酔薬注射ののち、すぐさま止血と応急手術が行われました。恐怖と重圧感で全身脂汗がにじむ中で5針の仮縫いが終わった時、私の手を握っていた渡辺監督と吉岡博士の「あと一針です」の声がかすかに聞こえてきました。「うーん、うーん」。もう一歩で脳貧血を起こすところでしたが、最後まで意識がはっきりしたまま6針の仮縫いは終わりました。診断によりますと、傷は二筋あり、一筋は左目の下から上唇にかけて12センチ、もう一筋は左耳下から頬にかけて10センチ、深さは約2センチとのことでした。犯人は柄をつけた2枚のカミソリで狙い打ちしたわけです。その二筋がザクロのように盛り上がり、二目と見られない凄惨なありさまだったと後でうかがいました。私の顔は、監督さんたちに「左の横顔がカメラフェースとして魅力がある」などと言われ、カメラマンも好んで左の横顔を写しており、世間でも評判でしたから、犯人はそれも心得て左横顔を狙ったものと思われます。全治までは長期間を要するようでしたが、目と唇にカミソリがかからなかったことと、口の中まで傷が突き抜けていなかったのが不幸中の幸いだったそうです。

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 ここで「鏡を、鏡を」と叫んだことが「役者根性の表れ」として後々まで言い伝えられる。スターとして、どうしてもそうせずにはいられなかったのだろう。