子役の代役からスタート 美しさが松竹の目にとまる
「日本映画俳優全集・男優編」によれば、林長二郎(本名・長谷川一夫)は1908年2月、現在の京都市伏見区の母マスの実家である造り酒屋で生まれた。母の弟が家業の傍ら、芝居小屋を経営していたため、物心つく前から入り浸り、芝居のまね事をしていた。
5歳の時、上演中の一座の座員が子連れで夜逃げしたことから、歌舞伎の子役に引っ張り出されて大好評。尋常小学校入学の年に関西歌舞伎の中堅役者に弟子入り。米騒動が起きた1918年、あらためて関西歌舞伎の大御所・初代中村雁治郎の門に入った。長男・林長三郎の弟子となって芸名・林長丸に。以後、女形を中心に芸を磨き、その美貌と演技力は業界内でも認められるようになった。
ちょうどそのころ、当初活動写真と呼ばれた映画が新しい大衆の娯楽として人気を集め始め、映画会社は競って時代劇の新スター発掘に力を入れた。門閥が幅を利かす歌舞伎界に見切りをつけた市川右太衛門、嵐寛寿郎らが次々映画界に身を投じていた。
やがて、長丸の舞台を見てその美しさに感嘆した松竹の幹部から、誘いの手が。当初は舞台に固執していたが、雁治郎も了解のうえ、期限付きで松竹下加茂撮影所入りしたのは、大正から昭和へ時代が変わって間もない1927年正月。まだ満19歳になっていなかった。鴈治郎から「林長二郎」の芸名を新たにもらい、他社に押されて壊滅状態の松竹時代劇の救世主と期待されての映画界入りだった。
1年に17本出演 「松竹のドル箱」へ
デビュー作の「稚児の剣法」(犬塚稔監督)は現在の貨幣価値で8000万円以上をかけた大キャンペーンもあって「(同年)3月12日から大阪・朝日座で先行封切り。19日からの全国封切りも大ヒット。立ち回りに歌舞伎の所作を取り入れ、踊るような舞うようなチャンバラ・レビューにしたことで、阪妻(阪東妻三郎)や右太衛門のあくまで男性的で荒々しい剣劇とは一味違った華麗さが特に女性ファンを引きつけた」(同書)。「女形で習練した水もしたたる美丈夫ぶりは女性ファンの心胆を奪った」(田中純一郎「日本映画発達史2無声からトーキーへ」)。
第2作、第3作が続けざまに作られ、第4作で「早くも長二郎映画の人気は確定し、短日月の間に松竹スターが誕生した」(同書)。デビューの1927年には17本(28年正月映画を含む)、翌28年には15本に主演。「文字通り、松竹のドル箱となった」(同書)。
その後も看板スターとしてほぼ月1本のハードスケジュールが続き、結局11年間在籍した松竹では約120本に出演した。この間、映画は無声からトーキーへ。関西なまりの矯正に苦労したが、何とか乗り切り、1935年6月から公開された「雪之丞変化」3部作は「数十万円という松竹創立以来の記録的配給収入をもたらし、36年1月の現代劇部の蒲田から大船への移転費用をこの1本で稼ぎ出したといわれる」(「日本映画俳優全集・男優編」)。
私生活では鴈治郎の次女たみ子と結婚。1男1女をもうけ、公私ともますます順風満帆のように見えたが……。