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連載昭和事件史

指が3センチもぬめり込み…イケメン松竹スターの顔はなぜ血まみれになるまで切りつけられたのか?

――1937年の「林長二郎顔切り事件」  #1

2020/11/08

東宝との泥沼対立に明け暮れていた映画業界

 当時の東宝は、業界に“風穴”をあけようとしている風雲児的存在だった。

「東宝(映画株式会社)は1937年9月、PCL映画製作所、JOスタジオ、東宝映画配給株式会社、写真化学研究所の4社が合併して設立。プロデューサーシステム、合理的な配給制などで、既存の松竹、日活などに対抗した。これに対し既存4社は地方の映画館に対して東宝映画ボイコットの呼び掛けを行った」(「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」)。

 東宝は「門戸開放を宣言して、多額の契約金を前提とする自由契約を勧誘した」「まず、日活の最大人気スターで興行価値の最も高い大河内傳次郎、入江たか子、それに高田稔の三大スターと結び、霧立のぼる、岡譲二と結び、原節子が入り、演出者として滝沢英輔、熊谷久虎、山中貞雄、伊丹万作、渡辺邦男、石田民三らが次々と入社した」(「日本映画発達史2」)。

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 東宝と既存映画会社の対立は泥沼化。7月7日の盧溝橋事件に端を発した日中全面戦争でいったん沈静化したように見えたものの、メーンイベントとなったのが林長二郎の引き抜き。東宝グループ総帥の小林一三が陣頭指揮したといわれる。

 長二郎についても松竹側の反発と攻撃は激しく、世論もそれに味方した。

「幼少のころより松竹の舞台に立ち、弱冠19歳の時から松竹映画に出演し、松竹に利用もされたが、長二郎今日の人気は松竹の商業政策から築き上げられたともいえる。それゆえ、長二郎今回の行動は、主家に弓を引く忘恩の徒である、という世論が強かった。これに対して、長二郎はなるほど松竹によって発見され、育てられたかもしれないが、それは同時に長二郎自身の持つ実力でもあり、発見者に対しては十分に利益を与えてきたはずである」「それにもかかわらず、会社側ばかりが一方的に恩義を押しつけ、長二郎を忘恩呼ばわりするのは封建思想以外の何ものでもない、という反対意見もあり、世論は喧騒を極めた」(「日本映画発達史2」)

 特に非難の論調が強かったのは京都日日だった。10月17日付朝刊の松竹の対応をまとめた記事で「松竹では林長二郎の忘恩的態度にむしろあきれ返り、ひらすら沈黙を守っているが、これがかえって全国ファン、館主、言論界方面の同情を呼び、大松竹の堂々たるこの態度に対し、一斉に激励の言葉を贈っている」と、もろに松竹側に立った見解を述べた。

大物スターの移籍は波紋を広げ、映画館主連盟も長二郎を攻撃した(京都日日新聞)

 11月1日付朝刊では、松竹系の映画館主で構成する全東部歩合特約館連盟が前月25日、東京で館主大会を開いて決議したと伝えている。「本連盟は忘恩、変節の林長二郎を断固排撃し、松竹本社の方針を信頼、絶対これを支持す。時まさに国家総動員の秋、協力一致、松竹映画の進展を図り、もって映画報国を期す」という内容だった。