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 これに対し「日本映画発達史2」はこう反論している。

「長二郎の東宝入りは、必ずしも黄金の前に屈したということばかりではなく、松竹の老獪な封建主義から脱却しようとする転身の願いも多分にあったようである。しかし松竹側に、長二郎問題に関して反省した者が何人いたであろうか。牢固たる郎党的集団の松竹は、東宝に対する反撃の意味も加えて、全社を挙げて長二郎を罵倒し、あらゆる術策を弄して長二郎を攻撃した。小新聞やスキャンダルシートがまたこれに雷同し、一人の人間長二郎を追い回し、糾弾した」

「あんな不徳義な人間に自分の映画をやらせたくない」

 長二郎が次回作にと熱意を燃やしていた「藤十郎の恋」の原作者で「文藝春秋」創業者の菊池寛が「あんな不徳義な人間に自分の映画をやらせたくない」と出演を拒否したことが10月22日付の東朝朝刊に載った。この件は長二郎が直接、菊池に懇願。菊池と親交の深い東宝幹部の斡旋もあって解決したが、義兄の林長三郎や、その母の鴈治郎夫人は長二郎の破門を表明。芸名を返還するよう求めた。

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「あんな不徳義な人間に自分の映画をやらせたくない」と語った菊池寛 ©️文藝春秋

 さらに注目を浴びたのは長二郎の妻たみ子だった。京都日日が10月20日付(19日発行)夕刊で「悩む林長二郎夫人 恩愛二筋道に傷(きずつ)く」と報道。同日付朝刊では芸能関係に強い「都新聞」(現東京新聞)が「長二郎、妻を殴る」、京都日出が「長二郎腐る」の見出しで、いずれも長二郎が口論の末、たみ子を殴打したと記した。

「私の二十年」によれば、東宝入社発表後、松竹での最後の作品「番町皿屋敷 お菊と播磨」の撮影で下加茂撮影所に行っていたとき、たみ子が駆けつけてきた。事情を話したが、興奮している妻は受け付けない。「『あたしは鴈治郎の娘だす!』と昂然とうそぶき、果ては狂態の限りを尽くしました。私はついに長年鬱積(うっせき)していましたものが一時に爆発して、ここにまた翌日の新聞ダネをつくる醜態を演じてしまいました。すなわち殴打事件が針小棒大に報道されたのです」。離婚は決定的に。そうしたさまざまな出来事の果てに「顔切事件」は起きた。