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連載昭和事件史

令嬢、女優、伯爵夫人…有閑階級がダンスホールで入り乱れた「乱倫」事件とは?

――「有閑マダム」「ジゴロ」「乱倫」…戦前最後のあだ花「ダンスホール事件」 #1

2020/11/22

「ダンスは不眠症直すため」

 そんなうわさを立てられて本当に困っています。いま警視庁で主任の方によく真相を説明してきたところですけれど、そんな嫌な関係なんか絶対にありません。ダンスは、不眠症を直すためダンスでもしたらというので、主人の許しを得て始めたのです。田村先生はほかの先生と違って非常に熱心で、時間もきちんきちんとよく教えてくれるので、ずっと先生に教わっていましたが、そのうちに田村さんは金のことをちょいちょい暗示するようなことを言うので嫌気がさしていたところへ、ホールなどで変なうわさをしている者があると忠告してくれる方があったので、今年の春以来はふっつりと行くのをやめています。きっと誰か私に反感を持つ方がデマを飛ばしたのでしょう。田村さんなんて、田舎のモダンボーイみたいな、顔といえば猫の子かお猿みたいな。本当に嫌なことです。ただ誘われるままに4、5度、横浜や多摩川辺へご飯を食べに行ったことが誤解を招く原因だったかもしれないと思って、いまさら軽はずみな行いを後悔しています。

斎藤輝子(「斎藤茂吉・探検あれこれ」より)

 記事には「無造作な態度で気軽に語った」という前置きが付いている。斎藤輝子は青山脳病院の先代院長だった斎藤紀一の次女。紀一が後継者と見込んで養子にした山形県出身の茂吉と18歳で結婚。夫は31歳。家のため、父の命令による否応のない結婚だった。2人の長男で精神科医・エッセイストの斎藤茂太「回想の父茂吉 母輝子」には「茂吉と輝子は『油と水』の関係である」とある。孫の斎藤由香「猛女とよばれた淑女」はさらに詳しく書いている。

 茂吉と輝子は4人の子どもに恵まれたが、夫婦仲は最悪だった。輝子は紀一の長女いく子が3歳で亡くなったために跡取りとして育てられた。乳母や女中、下働きの書生らにかしずかれ、何不自由なくワガママいっぱいの生活を送った。モダンでおしゃれな紀一のもとで育った輝子は、ふんどし姿でいるような茂吉を理解できない。いわば典型的なファザコンで、夫としても男性としても茂吉では満足できなかった。一方の茂吉は病院の院長としての重責の中、歌人としても苦渋の日々で、歌人たちと猛烈な論争を展開することもある。家では穏やかな時間を望んでいた茂吉は、郷里山形にいるような素朴で心優しい女性を望んでいたと思う。

 しかし、輝子は多くの明治の女性のように従順ではないし、しとやかでもない。好き勝手に外出し、夫を立てようとする心も皆無である。居丈高な輝子の態度の一つ一つが茂吉の神経を逆なでする。外交的な輝子に比べ、茂吉は感情を内面に沈殿させる。養子の身であるから最大限の抑制をするが、あるレベルに達すると猛然と爆発する。子育てをしない輝子をなじり、イライラし、殴打する。輝子にとって、茂吉の家庭内暴力は耐え難いものだった。まさに今でいうドメスティック・バイオレンスだろう。