芸人の楽屋言葉が一般社会に広まった
川本さんに先駆けること30年前、1980年の雑誌『人と車』2月号で、NHKのアナウンサー川上裕之さんも同様の経験を語ってます。78年の朝ドラ『おていちゃん』のリハーサル現場で、大正時代の人物が「お疲れさま」といってるのはまちがいだとディレクターに忠告し、セリフがその場で修正されました。後日そのことを明治生まれの女優、長岡輝子さんに話したところ、あなたは正しい、お疲れさまは芸人の楽屋言葉で、一般の人が使うようになったのはごく最近だと認めてくれたとのこと。
演出家の八田元夫が戦前(1939年)に書いたコラムでも裏がとれました。一般社会とは異なる演劇界だけの習慣として、夕方でも夜でも楽屋入りしたときには「おはようございます」、幕が下りたあとには「おつかれさま」とあいさつを交わすことを紹介し、言語学者には叱られそうだな、と自嘲します。
雑誌記事で確認してみると、たしかに一般の文献では、70年代くらいまで「お疲れさま」はめったに出てきません。59年3月号の『小説倶楽部』に京都の撮影所でスチールカメラマンをやってる男の話があって、芸能界では、さようならとかおしまいの意味で「おつかれ」を使うと説明されてます。60年代『放送文化』の「おつかれさま」、70年代『週刊平凡』の「ハ~イお疲れさま!」はいずれも、テレビ撮影現場のこぼれ話をまとめたページのタイトルとして使われてます。
「お疲れさまでございました」を推奨するマナー講師も
ということで、「お疲れさま」というあいさつは芸能界から一般に広まったものとみなして、まず間違いないでしょう。でもじつは一般の人たちも、目上・目下に関係なく使えるねぎらい言葉を待ち望んでいたのです。上下関係を気にしなければならない「ご苦労さま」よりも使い勝手がよかったこともあって、80年代の日本人は、待ってましたとばかりに「お疲れさま」に飛びつきました。
その一方で、ビジネスマナー講師たちのとまどう様子もうかがえます。
86年『ビジネスマナー事典』では、ご苦労さまもお疲れさまも本来目下に使う言葉だとして(その認識もまちがいなんですが)、あえて使うなら「お疲れさまでございました」と丁寧にいいましょうと勧めるも、ムリヤリな感は否めません。