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セクハラ訴訟“福祉のドン”はなぜ権力を持てたのか? 背景にある「有力政治家」との蜜月

セクハラ訴訟“福祉のドン”はなぜ権力を持てたのか? 背景にある「有力政治家」との蜜月

セクハラ・パワハラが横行する福祉業界の「闇」#2

2020/12/06
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 その一方、北岡氏の障害福祉分野における“功績”は誰に聞いても間違いないとも言う。

滋賀県にある「グロー」の本部

 かつて、障害者の福祉制度は「施設福祉」と言われていた。

 1960年代、アメリカでは障害者を収容するための巨大な施設(コロニー)が建てられた。当時は障害者に対する偏見は凄まじく、福祉の発想そのものが「障害者は施設に収容すればいい」だった。それを突き崩していく動きが活発化し、「精神病院解体」などのスローガンが福祉業界で叫ばれるようになる。

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 その変革の流れは日本にも伝播し、70年代に入ると「地域に開かれた施設作り」を念頭に福祉の実践現場では「脱施設」の動きが始まる。これらの礎を作った先駆者を「第一世代」とすると、北岡氏らはその背中を追って、この「地域に開かれた施設」を日本に根付かせることに奔走した第二世代だ。

 1993年、北岡氏は全国の障害者施設で働く職員のネットワーク作りを夢見て、仲間らと「へいももの会(平成桃太郎の会)」を発足。そして、翌年、全国に先駆けて障害児者を対象とする「24時間対応型在宅サービス」を立ち上げるのだった。

「アメニティーフォーラム」という祭典の存在

 実はこの「へいももの会」を土台として、1999年に北岡氏らが創設した「全国地域生活支援ネットワーク(現NPO法人全国地域生活支援ネットワーク)」と、北岡氏のお膝元・滋賀県の琵琶湖を一望できるホテルを貸し切って毎年行われる障害福祉の祭典「アメニティーフォーラム」が、北岡氏が築き上げた帝国の力の源泉だと、前出の元厚労省関係者は断言する。

「当時、日本の障害者施策の主流は、国が予算を丸抱えして障害者の面倒は施設でみる、でした。その根底には『障害は治らない』という偏見もあったと思います。北岡氏には、この国の歪んだ施策を変えたいという強烈な熱意がありました。それが2006年、障害者自立支援法として日の目をみます。それまでの施設という概念を地域、そして社会に開くこと。ある意味で障害福祉分野の民営化でした。北岡氏らは障害者をひとりの人間として、地域で草の根の力で支え、共に生きていこうと訴えました。この理念自体は間違っていなかったと思います」

大阪地検による冤罪事件の被害者となった村木氏も北岡と交流があった ©文藝春秋

 当時、北岡氏ら民間の動きを厚労省側で支えたのが、当時、社会・援護局障害保健福祉部企画課長で、後にえん罪事件を経て事務次官となった村木厚子氏だった。

 この法律が実現したことで、障害福祉分野の施策は大きな転換点を迎える。その一方、後のセクハラ・パワハラ訴訟につながる北岡氏の“権力“も強大になっていった。(#3に続く)

セクハラ訴訟“福祉のドン”はなぜ権力を持てたのか? 背景にある「有力政治家」との蜜月

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