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 食事は1日2回。ラーメンばかりで血圧が上がったこともあるが、健康診断では、特に異常はないという。

「切り詰めて生活しなかったらやっていかれないんです。借金は絶対にしたくない。でも私は戦中派でしょ? 朝起きたら食べる物がなくて、サツマイモばかりでよく生きてこられたなあと。そんな時代のことを考えたら、今の食生活だって御の字、天国ですよ」

「私にとって駄菓子屋の経営は真剣勝負なんです。これで食べているんです」と雅代さん

海外メディアからも注目、あの映画のシーンにも

 上川口屋は、21平米の敷地に建つ。間口は約6メートル。縁台に並ぶ、駄菓子が入った桐の箱は100年ぐらい前から使われているという。店ができた正確な時期は不明だが、雅代さんによると、早稲田大学の専門家が視察に来た際、「明治以前の建築様式だ」と語っていたというから、江戸時代に建てられた可能性が高い。店が建て替えられたという話は聞いたことがなく、その都度、修繕が繰り返されてきた。

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100年前から使われているという桐の箱には、あんずやきなこ棒など懐かしい駄菓子が詰まっていた

 そんな由緒ある店は、宮崎駿監督がプロデューサーを務めた映画『おもひでぽろぽろ』の1シーンにも使われ、日本のメディアだけでなく、台湾のテレビや韓国、中国、スペインなどの海外メディアにも取り上げられた。現在はコロナ禍でいなくなってしまったが、ここ10年ほどはアジア各国を中心に外国人観光客が訪れた。

養子として預けられ、学校が終わったら店番

 雅代さんは現在、この店に1人で暮らす。午前6時に起床し、ラジオ体操と朝食。店は午前10時に開け、夕方5時には閉める。休みは雨の日だけだ。夫は横浜市にいるが、一緒には住んでいない。たまに店に顔を出してくれるという。

昭和29年に店の前で祖母、叔母と一緒に写った、当時14歳の雅代さん(左)

 雅代さんは昭和15年生まれ。神奈川県川崎市で6人兄弟の長女として育ち、小学校3年生の時に、上川口屋で働く祖母と叔母のところに養子として預けられた。

「本当は父が養子に預けられる予定だったんですけど、『こんな店の後継ぎになるもんか!』と反発して出ていったんです。それで女の子にしようという話が持ち上がり、私に白羽の矢が立ちました」

 目の前の境内で友達がめんこなどで遊んでいるのをよそに、学校が終わったら店番をした。うらやましかった。日暮里の駄菓子問屋に仕入れに行った叔母を池袋駅で迎え、仕入れの品を運ぶのを手伝った。中学生の頃には自分も風呂敷を背負い、電車に乗って日暮里まで通った。夏休みのかき入れ時は、早朝から1日に2度も仕入れに行っていたという。