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――ジャニーズから独立はしても、田原さんにとってジャニー喜多川さんはやはり「人生最大の恩人」なのですね。そのジャニーさんは、2019年7月に天国へと旅立っていかれました。ジャニーさんは田原さんにとってどんな存在だったんでしょう?

田原 僕の親父は小学校1年生で亡くなりました。だからか、自分が男としてどうやって大人になればいいんだろうっていうのをずっと迷ってたんですよね。それで15歳の夏に出会ったのが、ジャニー喜多川という人だった。

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 きっかけは単純で、テレビを見ていて「ああ、この中で暴れたら最高に気持ちいいだろうな。田原俊彦を日本のみんなに知ってもらえたらすげえな。モテるだろうな。金稼げるだろうな」って思ったこと。母子家庭で非常に生活も苦しかったからね。

 それで僕は履歴書も送らずに甲府から東京へ電車で行って、「ジャニーさんに会いたい」と六本木まで行っちゃった。そのぐらいのエネルギーというか、“バカさ”があったからあの人と出会えたと思うし、僕のその心意気をジャニーさんはすごく分かってくれた。当時はジャニーズがすごく苦しい低迷期だったけど、そんな中で毎週毎週レッスンしてね。そりゃたまには「大丈夫なのかな、この会社。俺デビューできるのかな」って疑心暗鬼になることもあったけど(笑)。

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ジャニーさんがホームまで見送りに来てくれた

 ただ、レッスンは本当に楽しかった。若い子たちと一緒にリズムに乗って踊って、歌のレッスンが終わったら最後はゲームセンターでインベーダーゲームして、新宿駅でみんなと「バイバーイ」って別れる。最初はまだ甲府に住んでたから、あずさのグリーン車のチケットをジャニーさんが買ってホームまで毎週見送ってくれた。「この人は俺に懸けてくれてるな」というのも分かったし、僕も「絶対スターになるぞ」という思いでした。

 今でも時々思い出すのは、ジャニーさんの運転で赤坂の一ツ木通りを通った時に、ヤクザの車にぶつかったこと。あの人、急に英語でしゃべりだしたんだよ(笑)。ペラペラじゃん、みたいな。「え、ジャニーさんぶつかったよ、今」って。そしたら「ぶつかってない!」とかいって。「YOU、僕を売るの?」「いや、ぶつかったし」みたいな(笑)。これは書いちゃダメだよ。でもジャニーさんも亡くなったし、もう時効かな?

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――たしかに、ジャニーさんに田原さんほど付きっ切りで指導された人は他にいないかもしれません。「田原俊彦」こそが、ジャニーさんの最高傑作だと思いますか?

田原 そんなの、おこがましくて自分では言えない。でも……それは僕だよ(笑)。実際、ソロでは僕なんじゃないかと思ってますよ。僕はジャニーさんが45歳くらいの時に出会って、そこから18年間ずっと一緒にいた。ジャニーさんの本当に脂が乗った、45から60過ぎぐらいまでの時間を僕が占領したわけですから。ジャニー喜多川が一番作りたかった男になれたという自負はありますけどね。ジャニー喜多川とがっぷり四つに組んでエンターテインメントを叩きこまれたあの15年間は、僕の人生の宝物のような時間。あれがあるから、今も歌えているんだと思いますよ。