言葉はいつだって、感情よりも過剰だったり、不足していたりする
しかし、いくら言い換えて自分の思いと言葉とを近づけようとしても、じゃあ本当に君の笑顔以外では幸せを全く感じないかというとそんなはずはなく、眠っている間に別の誰かの夢を見ることがないかというと当然あるわけで、世界中を敵に回すほどのことをやってしまった人を本当に愛し続けられるかと言われると正直なところ難しい。つまり、これらのセリフは一見するとさも自分の感情をきれいに言語化したもののようだけれど、どれも感情を大きくオーバーランしている表現なのである。もちろん、こういった大袈裟な言葉を並べることで、思いの熱量が伝わって説得力が増すという効果はあるとは思うけれど、それが自分の感情とイコールかというと、決してそうではないのである。
そんな風に、私たちの口から出る言葉はいつだって、感情よりも過剰だったり、不足していたりする。「明日9時に集合ね」「そこのペンとって」のような事務的な連絡だけならば正確に言語化できていると言えるのかもしれないけれど、とかく「感情」という目に見えないものを言語化しようとすると、「言葉」という道具は意外と不便な部分が多く、それこそ「言葉にできない感情」だらけではないかと思う。
「言葉」を完璧に使いこなすのは、難しい気がする
作詞家という仕事を生業にして23年。日々そのようなことを考えるようになって、誰かが言葉の新しい使い方をしている瞬間に出会うと、うれしく感じるようになった。
いつか私たちが「言葉」という道具を完璧に使いこなせる日は来るのだろうか。たぶん、それは難しい気がする。なぜなら、言葉は「道具」であると同時に「生き物」だからである。今こうしている間にも世界のどこかで新しい言葉は生まれ、ある言葉は進化して別の使い方や別の意味を持ち、またある言葉は絶滅の一途をたどっていく。今日はうまく言葉に出来たとしても、明日には髪の毛一本の太さの何千分の一くらいにほんの少しだけ、ニュアンスが変わっている。そんな世界で私たちは暮らしているのだ。