「それで宮さんを説得しますか」3つあったラストシーン
「で、『鈴木さん、手伝ってください』と言うので、二人でラストシーンの案をいろいろ考えた。案は三つでした。A案は宮さんの案そのまま。王蟲が突進しその前にナウシカが降り立って、いきなりエンド。これはこれで宮さんらしいけどね。B案、これは高畑さんが言い出したもので、王蟲が突進してきてナウシカが吹き飛ばされる、そしてナウシカは永遠の伝説になる。C案、ナウシカはいったん死んで、そして甦る。
『鈴木さん、この三つの案のなかで、どれがいいでしょうかね』
『そりゃ死んで甦ったらいいですね』
『じゃ、それで宮さんを説得しますか』」※3
「そのときもう公開間近で、宮さんも焦っていた。宮さんは話を聞いて、『わかりました。じゃ、それでやりますから』と言って、いまのかたちにした。『ナウシカ』のラストシーンに感動された方には申しわけないんですが、現場ではだいたいこんな話をしているんですよ」(※3)
「ナウシカの前で王蟲が止まるわけないんです」
もちろんこれは宮崎が2人の提案をいわれるままに受け入れたということを意味しない。その狙いや意図を汲んだ上で、改めて自分の表現として「ナウシカがよみがえる」というラストを選んだのである。例えば、宮崎と親交の深い押井守監督は自著の中などで、宮崎の中には特攻隊のように自己犠牲によって救われるものが多い、ということを指摘している。
ここについて宮崎は次のように語っている。
「僕としてはナウシカの前面で王蟲を止めたかった。でも、止まるわけないんです。だから命を投げ出したナウシカが死んでしまう。これは仕方がないんだけど、そのナウシカが王蟲に持ち上げられて朝の光で金色に染まると、宗教絵画になっちゃうんですよね!(略)あれ以外の方法はなかったかと、ずっと考えているんです。(略)ぼくは、ジャンヌ・ダルクにするつもりはなかったし、宗教色は排除しようと思っていたのに、結果として宗教画になってしまったんです」(※1)
映画としてなんとかまとめようとしたら宗教画のようになってしまった。しかしそういう“感動的なラスト”だからこそ「切り抜けること」ができた。この2つの間にある齟齬が、冒頭で紹介した「こだわりを感じる」という言葉になって現れているのだ。
あのラストシーンでなくてはいけなかった『ナウシカ』
こうした宮崎の煩悶を念頭に『ナウシカ』を見直すと、クライマックスが宗教画のようになってしまった、ということが、単にラストシーンの描き方の問題に留まるものではないことが見えてくる。むしろ映画『ナウシカ』としては、あのラストシーンでなくてはならないような物語になっているのである。