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栄華は一瞬だった

 町井氏は66年、東声会解散を宣言。実業家の道に進むべく、東亜相互企業(株)を設立し、TSKビル建設に着手した。

 会員制社交クラブの開業と並行して、福島県の白河高原を舞台に大規模リゾートを開発する夢も見た。2万6000坪に渡る土地を取得し、会員専用の温泉付きコテージホテル、牧場、テニスコート50面、スケート場、プール、人間ドックを受診できる施設まで作る、壮大な計画だ。実際に道路を整備し、建物建設に着手した。

 町井氏に資金支援した金融機関は後に国会で明らかになる。朴正煕政権下の政府系・韓国外換銀行が60億円の支払い保証を行って、日本不動産銀行(後の日本債券信用銀行、現・あおぞら銀行)が54億円を融資した。内訳はTSKビル建設に21億円、リゾート開発に33億円だ(消費者物価指数を基にすると当時の54億円は現在の160億円程度になる。)

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TSK・CCC内のロココホール(「TSK CCC アルバム」より)

 しかし栄華は一瞬だった。TSKビルもリゾート開発も採算度外視で金を湯水のごとく投じたとされたが、リゾート開発では福島県知事への贈賄容疑で部下が逮捕され、76年、TSKビルに会長室を置いていた児玉誉士夫氏がロッキード事件で起訴された。町井氏はその側近として影響を受けた。盛況だったTSK・CCCは波が引くように人が離れ、開業わずか3年後、東亜相互企業は破たんした。

債権者を名乗る人たちが次から次へと現れて

 破たん後も町井氏はTSKビルを手放さず、その中のマンションで暮らした。会員制社交クラブが閉鎖された後、建物の一部で若者向けクラブが開業して賑わったが、建物の大部分は放置され、老朽化した。町井氏はリゾート開発の夢を諦めなかったが、人前に出なくなり、25年後の02年9月、79歳で亡くなった。 

TSK・CCC内の社交クラブの様子(「TSK CCC アルバム」より)

 主がいなくなると、TSKビルは「六本木最後の一等地」として激しい地上げの対象となり、暴力団・ブローカー・不動産業者が群がった。

「町井さんはTSKビルの増改築を繰り返し、建物の登記はろくに行っていませんでした。晩年は、誰に金を借りたのか本人もよく覚えていなかったと言い、債権者を名乗る人たちが次から次へと現れ、登記上の所有権は繰り返し書き換えられました。

 1000坪に及ぶTSKビルの価値は500億円を超えると言われ、後にリーマンショックで破たんするリーマン・ブラザーズ(証券)が300億円出すとか、中東ドバイのファンドが200億円出すとか、金額ばかり膨れ上がりました。政治家が絡み、裁判が起こされ、権利を巡って死人が出たと言われ、地上げはなかなか進みませんでした」(取材した社会部記者)