昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2020/12/25

「とくに講談師になりたいわけでもなかった」

 以下は生前の貞水さんの、自分語りの“講談”である。

◆ ◆ ◆

 私の親父は「浅野宇晴」という日本画家でね。本郷三丁目にある毛織物問屋の長男でした。これが典型的なバカ旦那(笑)。道楽で始めた絵に、たまたま才能があったらしいの。私が生まれたこの湯島の家は、親父が絵の道具を置いたり、思いついて絵を描くのに使っていた長屋なんですよ。親父は結局、実家の財産を食いつぶしてしまってね。あちこちに家屋があったらしいけど、結局、湯島のここしか残らなかったの。

 私はとくに講談師になりたいわけでもなかったけれど、勉強が嫌いだし、高校に行くのが嫌でね。親父が当時の講談組合頭取の邑井貞吉先生と仲が良くて、徒歩5分のところにあった講談専門の定席「上野本牧亭」によく連れて行かれたんです。それまで邑井先生のことを「骨董屋のオヤジか何かだろう」と思っていたのが、当時の文楽、志ん生、圓生などの落語の大看板でも、「あ、先生」と頭を下げるくらいのエライ人だったんだよ(笑)。

 先生の口利きで先代一龍斎貞丈の弟子になるんです。私が入門した頃は、それこそ「講談界に秋の風」と新聞に書かれるくらい、惨憺たるものだった。老大家ばかりで、唯一10歳上の田辺一鶴さんがいただけでした。私のことを邑井先生の孫かなんかだと勘違いして、いそいそとお茶を運んで来たりね(笑)。そんなところに私みたいな16歳の若手が入ってきたって、喜んでもらえたなぁ。

高座50周年記念「一龍斎貞水の会」で(2005年)

 前座名は「貞春」。初高座は昭和30年5月でした。楽屋には邑井先生、師匠の貞丈はもちろん、木偶坊伯鱗や桃川燕雄などの大家に、「高座でやらなくてもいいから、この話をお前が覚えておいてくれ。直さないで、このまま受け継いでくれよ。そうしたら、この間教えてくれと言っていた話を仕込んでやる」って言われましてね。

 当時、客は年配ばかりだし、「どうにか喋れるようになるまでには10年かかる」と言われていて、「10年後、はたしてこのお客さんたちはいるのだろうか」と考えて、今のままでの講談では若い人は見向きもしないと思い、ネタを作って、照明やら音楽を使っての「民謡講談」を始めたんです。民謡を漫才の松鶴家千代菊、千代若師匠に唄ってもらい、本牧亭のおかみさんの敷布を借りて、幻灯機で背景を映したりね。

 これがヒントになって、ライトを顔に当てて効果音を使った演出の怪談を思いついたんです。今使っている釈台には、配電盤も入っていて、ライトも仕込んである特別なもの。一人でスイッチ入れたり消したりできるんです。今までいろいろ試行錯誤したけど、結局、怪談ってのは、ろうそく1本立てて炎がゆらゆらしてる前でやるのが一番怖いんですよ(笑)。