講談界初の人間国宝で、講談協会会長、第一人者でもあった一龍斎貞水さん(本名・浅野清太郎)が、12月3日、肺炎でこの世を去った。享年81。釈台の前で張り扇を叩くだけでなく、いち早く照明や音響を駆使した画期的な「新立体怪談」を考案し、昭和50年代、異色の講談師としてその枠を超え、各メディアで人気を博す。のちに「怪談の貞水」との異名も取った。

 8日、近親者で葬儀を終えたが、哀しみも癒えぬまま、気丈にも、経営する「酒席 太郎」のカウンター前に立つゆき子夫人がいう。

「いやぁ、今までよく頑張ったと思うわ。最後の高座は1週間前の11月25日。私は店があるから行かなかったけど、1時間、やりきったのね。たぶんこれが貞水さんの集大成で、燃え尽きたんだと思えるのよ……」

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ガンを克服して高座に上がり続けた

 講談発祥の地とされる湯島天神。奇しくも貞水さんは、1939年(昭和14年)、この湯島天神男坂下に生まれ育った。かつて「この地で骨を埋めるんでしょうなぁ」と語っていたものだが、まさにその言葉通りの一生となった。

 湯島天満宮の講堂内で毎月開催されていた自身主催の「連続講談の会」で、前座時代に覚え、よく語っていた演目「金毘羅利生記」が、人間国宝最後の高座となる。所属事務所「影向舎」の神和住岳士氏によると、

一龍斎貞水さん ©共同通信社

「きっとこの話が体に染み込んでいたんでしょう。『立てるのかな? 大丈夫かな』という状態でも、高座に上がると元気になる。10年以上前から何度もガンを克服してきたんです。膀胱ガン、両肺のガンでは半分近く肺を切除し、前立腺ガンにも罹っていました。5度ほど『もうダメかもしれない』という場面を乗り切って来たんです。特に喋る仕事ですから、両肺のガンの影響は大変なことでもありました。主治医が『それでもこんなに元気なのは、奇跡的だ』と貞水先生の症例を学会で発表したい、とおっしゃっていたほどでした」

最後の最期まで講談師だった

 ここ数年は常に酸素吸入器を手放せず、3階の居室から2階のリビングまで届く、2メートル以上もあるカニューレを引きずって階段を下りる毎日だった。しかし、高座ではけしてその姿は見せなかった。

 ゆき子夫人はいう。

「病床で、意識も混濁しているなかで、最後まで耳は聞こえるんですってね。浅草公会堂の『スターの広場』に本人の手形の顕彰があるんだけど、その写真をスマホで見せたの。『ほら、浅草公会堂の、貞水さんの手形だよ!』って。そうしたらね、反応があったのよ。浅草公会堂って言葉に『出番だ』と思ったのかしら……。目を開いて、こう、手をね、小刻みに動かすしぐさをしたの。私には張り扇を打ってるように見えたのよ。最後の最期まで講談師だったわ……」

 まさに「講談の申し子」「講談の中興の祖」でもあった。