病の“暴力性”について 『怪物はささやく』
病人も辛いが、看病するほうだってそりゃ大変だ。しかもそうは言いにくい。自分は健康なのに弱音なんて吐けないよ……。
この映画は47歳で病没した女流作家シヴォーン・ダウドの原案をもとに、パトリック・ネスが書きあげた同名小説をもとにしている。とある母子家庭で母が病に倒れてしまい、13歳の一人息子コナーの生活は一変。コナーは「ママの病気は治る! 必ず、必ず!」と信じているのだが、それなのに夜毎、怪物の悪夢に悩まされ始める。
怪物はコナーを責めたてる。「今夜から俺が物語を聞かせてやる。俺が三つ語り終わったら、おまえの番だ。おまえが“四つめの物語”を話さなきゃいけない」と。
怪物の正体は、コナーが抱える“患者の家族として絶対に言えないある本音”が産みだした幻だ。だから、コナーがママのことを思って必死で口をつぐむほど、怪物はおおきく真っ黒に育っていく。
ところで、『100万回生きたねこ』の著者である佐野洋子さんがこんなエッセイを書かれていた。自分が病を得てから周りの人たちが優しくなった、それで病気は「暴力なのだとその時思った」と(『死ぬ気まんまん』より)。
本音の本音の本音の辛い一声
コナーもまた、この“誰も振るっていない暴力”とともに生き始めているのだ。
そうしてある夜。怪物は三つめの物語を語り終えた。つぎはコナーの番だ。
映画の最後の最後で少年が発した、血を吐くような声。短い短い物語。看病する側の本音の本音の本音の辛い一声。その“四つめの物語”は、いまこの時もけっしてそれを口にするまいと歯を食いしばっている無数の人々の声なき声と重なって夜空にとどろく。
原作小説を振り返り、恐れることなくこの声についての物語を書けたのは、原案者自らが死の淵に立っていたからなのか、と想像する。本を読み、映画を観終わっても、あまりにも寄る辺なくて思いが尽きない。