球界の名門への入団「ただ必死でした」
地元である三重県立宇治山田商業高校出身。中井は投打の要として甲子園などで活躍すると、2007年の高校生ドラフトで巨人から3位指名された。球界きっての名門への入団。じつは中井自身、プロになれるとはあまり考えておらず、自分の意思というよりも才能を見込んでいた高校の監督からプロ志望届を出すことを勧められたという。プロ野球選手になりたいと夢見る少年や学生が多いなか、中井はどこか客観的に自分のことを見つめる、淡々としたところがあった。
思いがけず始まったプロでの生活。中井はがむしゃらに先輩たちに食らいついていった。
「最初はただ必死でしたよね。2年目に初めて1軍に上がることができ順調かなと思ったんですが、そのあとがなかなか苦しくて上手くステップアップできませんでした」
レギュラーに手が届かなかった「巨人軍第83代四番打者」
中井は一学年上の坂本勇人とともにヤングジャイアンツの象徴として1軍の試合に出場するようになるものの、不調やケガに見舞われ好調を維持できずレギュラーを獲得できないまま選手生活が続いた。打撃力を見込まれ2015年シーズンには第83代となる四番打者を任されるなど存在感を示すこともあったが、競争の激しい巨人でコンスタントに結果を出すことができず、中堅選手の域を出ないままついに2018年のシーズン終了後、戦力外通告を受けてしまう。
まもなく29歳の誕生日を迎える頃であり、体はまだまだ動く。また、プライベートではこの年の春子どもが生まれていた。
唐突な戦力外「もうここを使うことがなくなるんだ」
当時のことを中井は次のように振り返る。
「誰でもそうだと思うのですが(戦力外通告は)唐突なことだったので、今後自分がどうしていけばいいのかわからない時期があったんです。本当、考えがまとまらず悩みました。ただ、このままじゃ前に進めないし、やっぱり自分には野球という選択肢しかないのかな、と。チャンスがあるかぎり野球を続けようと、その意思表示のためにトライアウトに参加することを決めました」
練習は古巣の巨人の施設を借りた。高校卒業以来11年間過ごし、慣れ親しんだ場所である。高橋由伸や阿部慎之助というトップクラスの選手たちとプレーし、野球の厳しさと勝つ喜びを享受した日々が脳裏に浮かぶ。
「不思議な気持ちでしたよね。もうここを使うことがなくなるんだって……」