「最初は"5000円で買って7000円で売る"商売だったのが、どんどん高騰して"1万円で買って1万5000円で売る"という価格帯になっていった。業者間で売買されるうちに価格が上がって、欲しい人の手に入るときにはもっと値段が上がっている。中でも白は高額でしたね。女子高生からブームが広がったので、ビジュアルが重要だったのでしょう。業者の中には、取引の時に白の数をチェックする人もいました。
そして白以上にレアだったのが、金と銀。これはおそらく関係者用に作られたもので、テレビでダウンタウンが持っていると紹介されて値段が高騰し、一時は20万円を超えていました。僕も1つだけ手に入れたことがあります」(B氏)
"狩り"まであった、ナイキの『エアマックス95』
たまごっちと並び、前出のA氏がたくさん売り捌いた国民的流行商品がもう1つある。1990年代の転売ヤーたちが群がり、"狩り"が社会問題になったあのスニーカーだ。
「ナイキの『エアマックス95』にもずいぶん稼がせてもらいました。渋谷でエアマックスを履いている人が絡まれて暴力でスニーカーを奪われる"エアマックス狩り"も横行していました。定価1万円そこそこのスニーカーが、中古でも3~4万円、新品なら15万円ほどで取引されているのを見て、たまごっちと同じ韓国ルートで転売に乗り出しました」(同前)
転売するものがスニーカーに変わっても、基本的な構造はたまごっちの時と大きく変わらない。
「エアマックスは工場が韓国にあり、ナイキからの発注を受けて製造するのですが、その工場に口利きをしてもらって仕入れました。ただスニーカーはサイズも大きいので、見つからずにウラで日本に持ち込む手段が見つからなかった。それで米軍基地の伝手を使うことを思いついたんです。
お金を払って韓国の梨泰院にある米軍基地に入り込んで軍関係者と仲良くなり、日本の横田基地に移動する人に大量の非公式エアマックスを運んでもらい、横田基地で受け取る。当時は横田基地も決まりが緩くて、米軍勤務の人が出迎えてくれれば簡単に横田基地に入れました。そこからトラックで大量のエアマックスを運び出し、日本国内で売る。エアマックスだけではなくて、ジョーダンシリーズやエアフォース1も同じ手口でした。合計2万足以上は密輸したと思いますね」(同前)
『たまごっち』以降は転売を廃業
A氏とB氏に共通するのは、『たまごっち』以降、ほとんど転売に関わっていないことだ。
「やっぱりたまごっちのブームは異常で、その後セサミストリートのぬいぐるみや腕時計の『G-SHOCK』にも手を出しましたが、儲けはわずか。なので、たまごっちで稼いだお金で起業して、今は別の仕事をしています。本当にたまごっち様々ですよ(笑)」(A氏)
A氏は50代で、全身をクロムハーツで固め一般人ではない空気を醸し出している。一方のB氏も同じ50代だが、パーカー姿で一見すると休日の普通の男性に見える。(後編へ続く)