1977(昭和52)年9月28日、パリ発東京行きの日本航空472便DC8型機が、中継地のインド・ボンベイ空港を午前10時45分(日本時間。以下同)に離陸した直後、日本赤軍を名乗る男5人にハイジャックされた。犯人たちは乗員・乗客151人を人質に取り、午後2時30分、乗っ取り機をバングラデシュのダッカ空港に強行着陸させる。
このあと犯人らはバングラデシュのマームド空軍参謀長を介し、日本政府に対して、600万ドル(約16億2000万円)の身代金と、日本で拘置中の7人の政治犯および2人の一般刑事犯、計9人の釈放を要求、これに応じない場合は人質を殺すと声明した。これを受けて時の福田赳夫内閣は、翌29日早朝、超法規的措置をとり、犯人の要求を飲むことを決断する。いまから40年前のきょうのできごとである。このときの福田首相の「人の命は地球より重い」という言葉はよく知られる。
犯人が指定した服役囚のうち、要求を受け入れた6人が釈放され、ダッカに向けて出国したのは10月1日だった。これにともない、運輸政務次官の石井一を団長とする政府の救援派遣団と、また日航からも朝田静夫社長を団長に派遣団がダッカに向かう。人質と釈放犯・身代金との交換は2日午前0時すぎより開始され、犯人は小刻みに合計118人を解放したが、残りの33人については解放を拒否する。この間、現地ではクーデター未遂事件も発生し、混乱をきわめた。そのなかで石井たちは粘り強く交渉を進めたものの、3日午前0時過ぎ、同国のラーマン大統領の命令により、乗っ取り機はダッカ空港を離陸。同機はこのあと、3日にクウェート、シリアのダマスカスにあいついで強行着陸し、計17人が解放される。4日午前1時25分には、アルジェリアのダルエル・ベイダ空港で犯人・釈放犯が同国当局に投降し、最後まで人質となっていた19人(交代乗員としてダッカから乗った3人を含む)も解放された。
ダッカでの交渉は、犯人側の周到な計画により、バングラデシュ政府を仲介にして進めざるをえず、難航した。しかもバングラデシュ側は、早期自主解決と流血阻止を大前提としていた。そのため、武装警察官の実力行使部隊を派遣したいとの日本側のひそかな打診にも、武器は一切持ってこないでほしいと強く要請したという(石井一『ダッカハイジャック事件』講談社)。当時、諸外国ではテロ事件に際して強硬策を行使することが大勢となっており、このときの日本政府の対応については国内外から批判が起こった。しかし、先述のような事情から、日本側には強硬策をとる余地はほとんどなかったともいえる。なお、事件解決後、法務大臣の福田一が、法を守る立場の責任をとって辞任した。